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「ひいおばあちゃんが生き抜いたから私がいる」 12歳の百恵さん、親子の思い<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>8


「ひいおばあちゃんが生き抜いたから私がいる」 12歳の百恵さん、親子の思い<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>8 糸数裕子さんがいつも座っていた椅子に座り糸数さんの写真を掲げる眞榮城百恵さん(中央)と親族の写真を手にする眞榮城茜さん(左)、眞榮城善之介さん=2日、那覇市三原
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 夜の船上で明かりを消すと、隣の人の顔もよく見えなかった。強い波を受け、船体は大きく揺れていた。もし海に落ちたらと考えると身がすくんだ。「すごく寒いし暗いし、怖かった」。80年前、曽祖母はこの海に投げ出されたと聞いた。

 浦添市の当山小学校6年の眞榮城百恵さん(12)は2023年12月、対馬丸記念館の学童疎開体験事業に参加した。曽祖母の糸数裕子(みつこ)さん(享年97)は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した対馬丸の引率教員で、多数の教え子を亡くした。

 「80年前、ひいおばあちゃんが何を感じ、どのような生活だったのか」

 体験事業の間、当時の献立を再現した食事は量が少なく、味も薄かった。夜に乗船し、沈没した状況と寒さを体感した。疎開した子どもと同じように家族や友人と離れた。「3日間だから耐えられたけど、当時の人たちはどれだけつらかったのだろう」。曽祖母の気持ちが少しだけ分かった気がした。

 その後、両親の勧めもあり、ことしの慰霊の日を前に募集された「児童・生徒の平和メッセージ」に初めて応募した。

 「ひいおばあちゃんが生きのびてくれたから 今ここに私がいる 命をつないでいる 生きている」「今、平和な毎日だからこそ その平和のありがたさを 時々忘れてしまいそうになる(中略) だから私はつないでいく 平和が何かを 戦争のおそろしさを 命の尊さを」。詩は小学校高学年の部で最優秀賞に輝いた。

 母茜さん(43)は糸数さんの孫に当たり、小学校の教諭。もし自分が教え子を説得して対馬丸に乗せ、全員を死なせてしまったら―。「私なら、自分が死んだ方がましだと思うかもしれない。祖母は口に出さなかったが、死にたいほどつらかっただろう」。戦後も生き抜いた祖母の思いを想像する。

 一方、教員として、また一人の親として、自分たちが戦争を伝えないといけないと感じている。「今になって祖母の話の大切さが分かる」

 百恵さんの父、善之介さん(45)も小学校の教諭。義祖母である糸数さんの体験を道徳の副読本にまとめ、命の大切さを伝える教材として活用している。ある時、考えてみた。

 「学校で平和教育をせず、沖縄戦も対馬丸も教えなくなったら、どうなるか。20年後、30年後には戦争反対という声もなくなるかもしれない」

 平和教育を廃れさせず、どう伝えるかを考えている。「娘は『忘れるからこそ、つないでいく』と話してくれた。一人一人ができることをすることが大切だ」。善之介さんも思いを新たにしている。

 百恵さんはあらためて思う。当たり前の日常があることが平和だと。穏やかな海であるために、どうするのか。「周囲にも戦争のことを伝え、自分が大人になった時も戦争が絶対に起こらないようにしたい」

 (外間愛也)

 (おわり)