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戦の海へ 沖縄県民、国策の犠牲に 米潜水艦、日本船を無差別に攻撃 国際法に違反<戦時撃沈船舶と対馬丸事件>1


戦の海へ 沖縄県民、国策の犠牲に 米潜水艦、日本船を無差別に攻撃 国際法に違反<戦時撃沈船舶と対馬丸事件>1 沈没寸前に米軍が撮影した対馬丸(那覇市歴史博物館提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1944年8月22日、対馬丸が米潜水艦の魚雷によって撃沈されてから80年を迎えた。疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かう途中に米潜水艦の魚雷によって撃沈された。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人。半数以上が子どもたちだ。

 沖縄では1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し、悲惨な地上戦が展開されたが、海上ではその前から戦場となり、多くの県民が犠牲になっていた。戦意を失わないよう日本政府や軍は日本船撃沈の事実を軍事上の秘密として、生存者や遺族などの口を封じた。県民は、疎開や徴用などで米潜水艦が潜む危険な海に送り出された。そして現在、「台湾有事」などを理由として、住民の県外避難などを掲げる国民保護計画が進む。沖縄の近海で起きた海の戦争はどんなものだったのか。今につながることは何かをまとめた。

 1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃の直後、米海軍作戦部長は太平洋地域で作戦行動に就いている海軍司令官たちに「対日無制限」攻撃の命令を出した。

 「米国の潜水艦乗員はびっくり仰天した」

 米太平洋艦隊司令長官として作戦を指揮したチェスター・ニミッツ氏は回顧録につづる。商船や輸送船であっても無制限に攻撃することは、国際法に違反するからだ。

 しかし、「近代総力戦においては(軍民の)効果的な区別は存在しない」(ニミッツ氏)と米軍は作戦に突き進む。43年初頭に日本の商船暗号の解読に成功すると、約100隻の米潜水艦部隊が「狼群作戦」と呼ばれる大量撃沈に踏み出した。

 一方、日本軍も船舶の撃沈を軍機扱いにした。生存者を憲兵が軟禁状態に置くなどして、情報を隠し、被害が拡大した。

 そうした軍の論理に翻弄(ほんろう)されたのが、移動を航路に依存した沖縄だ。

 日本軍と政府はサイパンが陥落した44年7月、民間人は戦闘の足手まといになるという認識で、琉球、奄美諸島の住民の疎開を決める。制海権を握られ、撃沈が相次ぐ危険を県民に隠して乗船を促した。同年8月22日に1484人(氏名判明分)が犠牲となった対馬丸撃沈事件はその帰結だった。

 他の疎開船や南西諸島からの引き揚げ船、本土を結ぶ定期船も犠牲になった。42~45年に沖縄関係者が乗った船が攻撃されたのは県の調べで26隻、死没者数は県出身者3427人を含む4579人とされる。