1944年8月22日、対馬丸が米潜水艦の魚雷によって撃沈されてから80年を迎えた。疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かう途中に米潜水艦の魚雷によって撃沈された。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人。半数以上が子どもたちだ。
沖縄では1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し、悲惨な地上戦が展開されたが、海上ではその前から戦場となり、多くの県民が犠牲になっていた。戦意を失わないよう日本政府や軍は日本船撃沈の事実を軍事上の秘密として、生存者や遺族などの口を封じた。県民は、疎開や徴用などで米潜水艦が潜む危険な海に送り出された。そして現在、「台湾有事」などを理由として、住民の県外避難などを掲げる国民保護計画が進む。沖縄の近海で起きた海の戦争はどんなものだったのか。今につながることは何かをまとめた。
沖縄県の調査では太平洋戦争中、県出身の民間人が乗った船舶26隻が沖縄周辺や奄美諸島周辺海域などで米軍の攻撃により撃沈された。26隻はこれまでひとくくりに「戦時遭難船舶」との用語が用いられてきたが、2017年3月に発行された「沖縄県史各論編 第六巻 沖縄戦」では「戦時撃沈船舶」と、表記を変えた。「戦時撃沈船舶」(吉川由紀執筆)の項目では、その理由として「『遭難』は災難に遭うという広い意味を持つ語であり、戦時中に空襲・魚雷攻撃を受けた船は、敵対する相手からの戦闘状態の中で『撃ち』『沈められた』ものである。県民の戦争被害に原因を明らかにするため『遭難』を『撃沈』に改めた」としている。
琉球新報も戦時撃沈船舶と表記する。
子奪われた母かたどる 「海鳴りの像」
戦後42年となる1987年、戦時遭難船舶遺族会連合会が慰霊碑として「海鳴りの像」を那覇市若狭の旭ヶ丘公園に設置した。像は、ぐったりとした子を抱く母親をかたどる。
設置当時、対馬丸を除く25隻の船舶で犠牲になった県民1927人(当時)を悼み、刻銘版に犠牲者名を刻む。設置当時、1438人が刻銘され、その後も追加刻銘されている。
87年6月23日に除幕式と、撃沈された犠牲者の初めての慰霊祭が同時に執り行われた。像の前では毎年6月23日、同連合会が慰霊祭も執り行う。
画家の宮良瑛子さんが像を制作した。肉親を戦争に奪われた人間の悲しさや怒り、優しさと生きるたくましさ、平和への願いを表した。対馬丸の慰霊碑「小桜の塔」も同公園内にある。