今年3月24日、那覇市若狭にある「海鳴りの像」。戦時遭難船舶26隻の犠牲者を悼み、刻銘板に名が刻まれている。初めて訪れた石垣市登野城の山里節子さん(86)が、貨客船・湖南丸に乗り15歳で命を奪われた兄・秀雄さんの名をなぞった。「いましか来られなくてごめんなさい」との思いを込め、古里の唄とぅばらーまをささげた。
秀雄さんは9歳上。丸刈りで細身、まじめで秀才。6歳で別れた節子さんが覚えていることだ。
秀雄さんが海軍飛行予科練習生(予科練・少年航空兵)の2次試験を受けるため、島を出る日。節子さんは石垣島の港に多くの人が詰めかけたことも覚えている。大人たちは万歳三唱し、秀雄さんを見送った。
心配する祖父母に秀雄さんは生前、安心させる言葉をかけた。「2階建ての家を造って、じいさん、ばあさんを楽にする」。節子さんや親戚の子どもたちに勉強を教えるなど優しかった。
秀雄さんは那覇から鹿児島へ向かう湖南丸(2627トン)に乗って、命を落とした。県史などによると、1943年12月21日午前1時38分ごろ、口永良部島西方で、米潜水艦グレイバックからの魚雷2発が命中し、2分間で沈没した。真冬の海に放り出された人々の約400人は護衛艦「柏丸」(515トン)に救助されたが、柏丸も1時間後にグレイバックの魚雷攻撃で沈んだ。
湖南丸には683人が乗り、死者は577人とされる。乗客名簿には載っていない、秀雄さんら少年航空兵志願者の200人余も乗船し、そのほとんどは14~17歳だったとされる。
数カ月後、節子さんたち遺族に秀雄さんの訃報が届いた。役場から白木の箱を受け取った。中には枝サンゴが三つ入っていた。幼い節子さんは状況を飲み込めなかった。今振り返ると、軍部や国への怒りが湧く。「人の命を石ころくらいにしか思っていない。軽んじられていて憤りを覚える」
現在、国は「南西シフト」を掲げ、八重山などで自衛隊増強を進める。2023年から2年連続で石垣港に米軍艦船が入港するなど、きなくささがやまない。石垣港は24年4月、自衛隊や海上保安庁が平時から円滑に利用できるようにする「特定利用港湾」に指定された。
節子さんはこれまで石垣市での陸上自衛隊配備に反対してきた。「人の命とつながりがある八重山の海」を尊んできたが、有事に利用されかねない状況を憂い、島の未来を考えて眠れない夜もある。「あの戦争の再来のようで、怒りを抑えられない。国にとって沖縄はいい踏み台になっていないか」。島が再び戦争に使われることを節子さんは拒む。
(照屋大哲)