1943年初頭に米軍が暗号の解読に成功し、沖縄近海でも軍艦や民間船に関係なく無差別で日本の船舶を攻撃した。しかし、日本は改正軍機保護法で船舶撃沈の情報を伏せ、生存者や遺族に口止めした。
44年8月22日午後10時すぎ、疎開学童と一般疎開者約1700人を載せた対馬丸が米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、奄美大島の北の悪石島付近で沈没した。犠牲者は学童疎開784人、教員・世話人30人、一般疎開625人、船員・兵隊45人の計1484人(名簿判明分)に上り、生存者は約280人にとどまっている。
対馬丸以外にも、撃沈された県関係者が乗船していた船舶は25隻ある。県出身の被害者は計3400人以上に上る。戦時撃沈船舶被害の全容はいまだ明らかになっておらず、国による補償も進んでいない。
海に囲まれた沖縄は戦時中、船舶が主な移動手段だった。アジア太平洋戦争の開戦以降、米軍は日本の船舶を無制限に攻撃し、本土航路が攻撃されるなど43年ごろから沖縄近海で戦争が始まっていた。沖縄戦を指揮した日本軍第32軍は県民にそのことを知らせず、戦闘態勢と基地を構築していった。軍の足手まといとして住民を排除するための疎開は国策として並行して進められ、住民は海で命を奪われた。
第32軍司令部の陣中日誌には「敵潜に関する件」の見出しで、沖縄周辺の海に出没する米潜水艦の情報が記されている。第32軍が創設された44年3月22日から対馬丸出航までの5カ月間で、延べ43回の「敵潜発見」と日本の船舶沈没14隻の記録がある。
軍や警察はかん口令を出して生存者や遺族らの口を封じ、船が沈められていた事実を県民に知らせなかった。県史によると、沖縄で総力戦態勢を整えるため、足手まといの住民を排除するための疎開に影響が出ると危ぶんだことも考えられる。
対馬丸撃沈を研究する吉川由紀さんは「米軍の無差別攻撃はもとより、日本政府・軍は危険な海域に非戦闘員を貨物船に乗せていると明確に表示せず、護衛能力もない艦船を共に航行させた。その責任も見逃すことはできない」と指摘した。
(中村万里子)