「対馬丸事件」から80年 米潜水艦の魚雷で撃沈、1484人が犠牲に きょう慰霊祭 沖縄


「対馬丸事件」から80年 米潜水艦の魚雷で撃沈、1484人が犠牲に きょう慰霊祭 沖縄 新たに追加された親族の遺影を掲示する又吉嘉政さん=20日、那覇市若狭の対馬丸記念館(ジャン松元撮影)
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 太平洋戦争中の1944年8月、沖縄から九州へ疎開に向かう学童らを乗せた船「対馬丸」が米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、784人の子どもを含む1484人が犠牲になった対馬丸事件から22日で80年を迎える。

 沖縄県那覇市の慰霊塔「小桜の塔」では、22日午前11時から慰霊祭が行われる。対馬丸記念会の高良政勝代表理事が追悼のことばを述べる。自見英子沖縄担当相や玉城デニー沖縄県知事、知念覚那覇市長らも参加する。

 事件を伝える対馬丸記念館(那覇市若狭)には新たに8人の遺影が追加された。80年前、米軍に撃沈された対馬丸の乗船者で、今回の追加で同記念館の遺影は計414人となった。

 対馬丸は、44年8月21日、疎開する学童ら1788人を乗せ、那覇港から長崎へ向けて出航。翌22日夜、鹿児島県悪石島付近を航行中に米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈没した。 

 当時、学童疎開は軍や政府の意向に沿ったものだった。日本軍と政府は、サイパン戦を経て民間人は戦闘の妨害になるという認識に立ち、44年7月以降、沖縄本島と宮古・八重山から子どもや高齢者、女性を九州と台湾へ疎開させた。一方、沖縄近海は既に米軍の潜水艦が出没するなど、疎開児童を乗せた対馬丸は危険な海域を航行しなければならなかった。撃沈の事実はかん口令によって伏せられた。対馬丸の生存者は海に投げ出された後、筏(いかだ)にしがみついたり、運よく救命ボートに乗れたりした。生存者は約280人にとどまった。

 政府は2025年度に水中ドローンの使用を念頭に置いた船体の水中調査を検討している。関連予算を25年度沖縄関係予算の概算要求に計上する方向で調整を進めている。対馬丸撃沈から80年、対馬丸記念館の開館20周年の節目に合わせた事業に位置付ける。