耳に残るのは「ねーねー(お姉ちゃん)!」と叫んでいた弟の声と、「しっかりつかまっておくんだよ」という母の声。なぜ、助けられなかったんだろう―。対馬丸撃沈事件に遭い、母親と弟2人を亡くした当時7で読谷山国民学校の2年生だった喜友名トミさん(87)=読谷村、旧姓・大城=は戦後、1人だけ助かった自分を責めた。誰にも打ち明けられず、対馬丸の「つ」と聞いただけで、いたたまれずにその場から立ち去った。1944年8月22日の事件から50年近く、そうした月日を過ごしてきた。
サイパンが陥落した同年7月7日、政府は軍の要請に基づき、緊急閣議で沖縄県民の疎開を進めると決めた。沖縄での総力戦態勢を整える軍に協力するため、行政も学校も地域も各家庭に疎開を勧めて回った。戦争への総動員体制を進める組織の一つ、国防婦人会。母親は地域でその役員だった。「人に勧めるからには自分たちも」と疎開を決めた、と後で知人に伝え聞いた。
8月19日、嘉手納駅から軽便鉄道に乗った。那覇までは父親も一緒で、大はしゃぎだった。出港当日の21日、対馬丸の船倉はむっとする臭気がした。
翌日午後、母親は「上に行こう」と言い、甲板でお守りに紙幣を入れ、トミさんや弟たちの首にさげてくれた。「何かあったらお母さんに聞かないで使っていいよ」。日が暮れてくると救命胴衣を着けさせ、甲板から動こうとしなかった。
うつらうつらしていると「ドカーン!」という音で揺れ、煙突か何かが二つに割れて火の粉が飛び散った。気づいたら海で筏(いかだ)の上にいた。母や弟たちの名前を呼ぶと、「つかまっておくんだよ」という母の声が聞こえた。それが最後だった。「寒くて眠くて。歯がガチガチ震えた」。筏の上に数人いた気がするが、意識はもうろうとしたまま、波にもまれる木の葉のような筏につかまり続けた。
約1週間後、ようやく船に救助された。鹿児島で旅館に収容された。探しても母や弟たちの姿はなかった。旅館を抜け出しては港に行き、入ってくる船に走って行って尋ねた。
「うちの母と弟、見ませんでしたか」
いないと分かると涙がこぼれた。泣き疲れて港で寝てしまうこともしばしばだった。
(中村万里子)
沖縄戦では地上戦となる前から海は戦場だった。戦争遂行のために国は疎開を進めた末、大勢の子どもを含め県民を死に追いやった。対馬丸撃沈事件から80年。対馬丸を含む船舶遭難の体験から、軍事強化と避難計画が進み「新たな戦前」と言われる今を見詰める。