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つらい記憶、証言に残し 「戦争は嫌だと叫びたい」 <海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>1の続き


つらい記憶、証言に残し 「戦争は嫌だと叫びたい」 <海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>1の続き 魚雷を発射した米潜水艦ボーフィン号が沈没の寸前にとらえた対馬丸の写真(那覇市歴史博物館提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 1944年8月22日に起きた対馬丸撃沈事件から約1週間後、当時7歳の喜友名トミさん(87)は救助された。鹿児島から宮崎の加久藤(かくとう)村に連れて行かれ、読谷村の古堅国民学校の児童たちと合流した。

 宿舎は加久藤村の国民学校の校舎だった。疎開先も安全ではなかった。校舎は米軍機の攻撃の標的になった。

 食料の買い出しは子どもたちの仕事。ただ、食糧不足からか、農家を回っても分けてくれない人もいた。そのまま戻ると叱られるため、河原で時間をつぶした。母や弟たちを思い、寂しくて泣いた。

 着替えもなかった。ふびんに思ったのか、担任の女性が自分の着物をほどき服を作ってくれた。

 沖縄に残っている父親から手紙が届き「迎えに行くからね。頑張っておけよ」と記されていた。

 しかし、46年に沖縄に戻ると、父親は沖縄戦で亡くなっていた。船から降りた他の子どもたちは、父母らに抱きかかえられた。しかし、誰も迎えにこない。「生きて帰らなければ良かった」。涙がこぼれた。

 それでも祖父母のもとで育てられ、周りの人の優しさに支えられた。道を歩くと、地域の人から呼び止められ、声をかけられた。「生きて帰って来て良かったね」「頑張ったね」「幸せになれるよ」―。くじけそうな時、その言葉を思い出してきた。

 高校生の頃、訪問者が父親の最期を伝えてくれた。「(父親は)玉城(現在の南城市)方面で負傷し、病院で亡くなった。『娘がいる』とずっと気にしていましたよ」と。

 宮崎で親切にしてくれた担任の女性にお礼を言えないまま、離れたことも気になっていた。女性の所在が分かり、再会して感謝を伝えることができた。「悲しくて、うれしくて」。事件から46年目のことだった。

 それから少しずつ体験を話せるようになり、読谷村の聞き取りにも応じた。証言は2002年に発刊された村史に収録された。ただ、やはり本当は思い出したくないつらい記憶だ。

 対馬丸撃沈事件は軍事機密として、生存者や遺族は当時の法律で口外を禁じられた。警察からの厳しい取り締まりへの恐怖から話せなかったなどの証言も残る。トミさんにその記憶はなく、2004年に開館した対馬丸記念館を訪ね、展示で初めてかん口令を知り驚いたという。

 事件から80年。先島諸島での自衛隊増強や武力攻撃を想定した住民の九州への避難計画、シェルター整備などの流れが、疎開を強いられた戦前を思い起こさせる。自衛隊、避難、疎開先の言葉を再び耳にするようになった。また近いうちに戦争が来るのか。不穏な海鳴りはやまず、懸念は強まる。「嫌だと声を大にして叫びたい。嫌で嫌でたまらない」。そんなトミさんの思いは、海の底に沈む子どもたちの願いでもある。 

(中村万里子)

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連載:海鳴りやまず
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