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1484人が犠牲になった対馬丸事件とは 住民は“足手まとい”と疎開 米潜水艦に狙われ撃沈


1484人が犠牲になった対馬丸事件とは 住民は“足手まとい”と疎開 米潜水艦に狙われ撃沈 対馬丸などを沈没させた米軍潜水艦ボーフィン号=2014年6月13日、ハワイ州オアフ島
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 対馬丸事件とは、太平洋戦争中の1944年8月22日、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた対馬丸が米潜水艦の攻撃を受けて沈没し、784人の子どもを含む1484人が犠牲になった事件。日本軍と政府は、サイパン戦を経て民間人は戦闘の妨害になるという認識に立ち、1944年7月以降、沖縄本島と宮古・八重山から子どもや高齢者、女性を九州と台湾へ疎開させた。米軍の沖縄進攻が想定される中、軍の配備を増強すると同時に、食料確保のためと戦場で足手まといとなる住民を立ち退かせ、軍官民一体の戦闘態勢の強化を図った。

 だが沖縄を取り囲む海は米軍が行き来する船17隻を手当たり次第に攻撃するなど危険だった。政府も沖縄の第32軍も危険性を県民に伏せた中、対馬丸撃沈事件は起きた。

口止め

 「沖縄県史 各論編 第六巻 沖縄戦」などによると、44年7月7日にサイパンで組織的戦闘が終わると、内務省と県が第32軍や受け入れる他県などと調整し、疎開人数や疎開先を決めた。19日には、内政部長から国民学校長などに「一億国民総力を挙げて国土防衛体制確立する」と学童疎開準備の指令があった。

 しかし海は安全でなかった。41年12月の日米開戦の直後から、米軍は日本の船に対し民間人が乗っている商船や輸送船であっても撃沈する戦法をとった。43年初めに暗号解読に成功すると、日本の海上輸送は壊滅状態に陥った。しかし国は改正軍機保護法で船舶撃沈の情報を伏せ、生存者や遺族に口止めをした。

護衛艦も守れず

 対馬丸は上海から沖縄派遣の第62師団を乗せて8月19日に那覇に到着、21日に疎開学童と一般疎開者約1700人を乗せて那覇を出航した。対馬丸、暁空丸(ぎょうくうまる)、和浦丸(かずうらまる)の貨物船3隻で約5千人を乗せ、駆逐艦と砲艦の2隻と船団を組み出港した。

 船団は那覇に着く前から米潜水艦ボーフィン号に狙われていた。22日午後10時過ぎ、奄美大島の北の悪石島付近で魚雷攻撃を受けた。本格的な救助活動は行われず、犠牲者は学童疎開784人、教員・世話人30人、一般疎開625人、船員・兵隊45人計1484人(氏名判明分)に上り、生存者は約280人にとどまった。名ばかり護衛艦に船団を守る能力はなく、闇夜の海に投げ出された疎開者は見捨てられた。

2023年7月に逝去した対馬丸撃沈事件の生存者、平良啓子さん=2019年4月、大宜味村

 対馬丸の生存者は、筏(いかだ)にしがみついたり、運よく救命ボートに乗れたりした。安波国民学校の4年生で当時9歳の平良啓子さん=2023年に88歳で死去=は発生から6日間筏で漂流し、28日に救助された。平良さんは家族・いとこの6人で乗船し、兄や祖母、仲の良かったいとこや友を失った。

全容解明至らず

 対馬丸事件の遺族は戦後早い時期から遺族会を立ち上げ、慰霊事業や補償問題に取り組んだ。一方、対馬丸を除く戦時に撃沈された船舶の遺族はほとんど援護を受けてこなかった。83年に「戦時遭難船舶遺族会連合会」を結成し、連合会は戦時遭難船舶について調査を開始した。

海中に沈む対馬丸。右から「對馬丸」と読める。1997年に海洋研究開発機構(JAMSTEC)が船体の文字を撮影した((C)JAMSTEC)

 県も93年に「戦時遭難船舶犠牲者問題検討会」を設置し、集中的に調査検討を行った。県が発表した県出身の民間人にかかわる戦時撃沈船舶は26隻、県出身者の犠牲者は3400人以上に上る。

 責任を負うべき国は戦時遭難船舶の被害の全容をいまだ解明しておらず、問題の解決に至っていない。

 (中村万里子)