対馬丸記念会常務理事の外間邦子さん(85)=那覇市=は物心ついても母親に甘えた記憶がない。5歳の時、姉で泊国民学校5年の美津子さん=当時(10)=と同3年の悦子さん=同(8)=が対馬丸に乗り、命を奪われた。母親は娘2人を亡くし、病気がちで口数も少なかった。「母はごめんねという気持ちだけだったと思う」。外間さんは「私はかわいくないんだろうか」とさびしさを覚えた。
1944年7月、政府の命令で県や市町村は家族連れの一般疎開や子どもだけの学童疎開を進めたが、ためらう保護者もいた。疎開希望者の少なさに当時の富山徳潤・那覇市長は「戦争協力への意識に欠ける」と激しい口調で各学校に努力を促したとされる。教員らは「来年3月までに戦争が終わって健康に帰す」「船団は軍の護衛がついて安全だ」と説得に回り、希望者を増やした。
外間さんの父親・宏栄さんもためらった末、娘2人の疎開を認めた。宏栄さんは撃沈を知った時の思いを「あゝ学童疎開船対馬丸―記録と証言」に記した。「後悔が胸いっぱいにひろがり、言葉もなくただ黙り込むだけであった」。宏栄さんは対馬丸遭難者遺族会の会長を担い、2010年に101歳で亡くなった。祖母も胸をかきむしって泣きわめいた。「生きていてくれ」という父母らの願いは諦めになり口に出さなくなった。子どもながらに姉たちの話をしてはいけないと察した。
別の撃沈された船舶と比べ、対馬丸の弔いは戦後いち早く官民で執り行われた。1950年、沖縄民政府は那覇市の壺屋小学校で対馬丸遭難学童遺族大会を開催した。犠牲者が埋葬された奄美大島から遺骨を持ち帰り、慰霊祭や小桜の塔の設置も進んだ。対馬丸遭難者遺族会も50年代に発足し慰霊と遺骨収集、政府に補償を求めた。62年に見舞金が交付され、77年に特別支出金の支給の閣議決定につながった。
対馬丸記念館の運営に外間さんは2005年の開館当初から携わり、語り部として多くの来館者に対馬丸の悲劇や遺族の苦しみを伝える。いまだ沖縄に軍事力が集中し、有事という言葉も当たり前に使われる。「80年前と何も変わっていない。沖縄は本土にとって今も捨て石なのでしょう」と問いかける。
母親は三十三回忌の年、どこからか2人の遺品のランドセルを出してきて仏前に供えた。翌年、前触れもなく亡くなった。「ほっとしたんでしょうね」。そのランドセルは記念館の入り口正面に飾られ、事件の悲劇を象徴する存在になっている。ランドセルを見るたび、外間さんは決意する。「沖縄をまた日本を守るための戦場にさせてはいけない。もっと声をしっかり出していかないと」
(中村万里子)