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新たな戦前に警鐘を 対馬丸事件から80年、記念館は「今を考える場に」平良館長、記憶途絶えさせず継承へ 沖縄


新たな戦前に警鐘を 対馬丸事件から80年、記念館は「今を考える場に」平良館長、記憶途絶えさせず継承へ 沖縄 2004年に那覇市若狭に開館した「対馬丸記念館」
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 太平洋戦争中、疎開する学童や子ども連れを乗せた対馬丸が米潜水艦に撃沈され、1484人(氏名判明分)が犠牲になった事件から22日で80年。関係者が年々少なくなる中、事件の記憶を途絶えさせてはならないと語り継ぐ動きが進む。一方、戦前と重なるような沖縄における軍事強化と避難計画の策定の動きに、識者は政府の前のめり姿勢や避難の現実性を疑問視する。 

 対馬丸撃沈事件の悲劇や学童疎開などを伝える対馬丸記念館(那覇市若狭)は22日、開館から20年を迎えた。対馬丸の船体を引き上げる代わりに、国が慰謝事業として整備し、遺族会を前身とする公益財団法人対馬丸記念会が管理運営してきた。一方、対馬丸以外の撃沈船舶の被害はいまだ全容が解明されていない。記念会副理事長の渡口眞常さん(74)や記念館館長の平良次子さん(62)らは今後、沖縄に関連する海の戦争の全体像も伝え、犠牲者たちの生きた証しを残そうとしている。

対馬丸で兄2人を亡くした対馬丸記念会の渡口眞常副理事長=那覇市の対馬丸記念館

 記念館には、対馬丸の撃沈現場に近い悪石島の遠景写真と「生存者の苦悩」の言葉が展示されている。開館5年目に加えた。渡口さんは兄2人を亡くし、親の悲しみに触れてきた。「常務理事で遺族の外間邦子さんと話し合って、生存者や遺族もトラウマ(心的外傷)や葛藤を抱えていると伝えたかった」

 記念館は2022年から児童らが参加する学童疎開の追体験事業を始めた。今年は「対馬丸平和継承プログラム」に変更し、フェリーで那覇―奄美大島の乗船体験を盛り込んだ。現在、台湾有事を念頭にした沖縄への軍事増強や避難計画が進むことに、渡口さんは危機感を覚えたからだという。「戦争の悲惨さを伝える体験事業が疎開の予行演習になったら大変だ。沖縄戦では第32軍が配備されて戦う準備をした。避難計画には生活の保障もない。住民をどうするのか。生活基盤が壊される恐れもある」

 今年4月、平良さんが記念館館長に就いた。母親の啓子さんは事件の生存者で、2023年に88歳で亡くなる直前まで語り部として活動した。平良さんも南風原文化センターに勤め、教育現場などで沖縄戦の継承に取り組んできた。「過去と重ね、今はどうなのか。考えさせる記念館でありたい」と考える。

「今を考える記念館にしたい」と話す対馬丸記念館の平良次子館長=南風原町

 対馬丸事件の犠牲者1484人(氏名判明分)のうち、0~15歳の子どもの割合は7割を占める。児童を題材にした戦史資料館として知られる。教員向けの講座も館で開かれている。若い世代の教員からは政治的中立を定める学校教育の現場で、今の沖縄の社会状況をどう教えればいいのかと疑問も寄せられることがあるという。

 戦時中、軍事体制と疎開を推進した知事・島田叡や、対馬丸撃沈についてかん口令で口外を禁じた県警察部長・荒井退造について、この近年、県内外で美化する動きもある。対馬丸をはじめ、撃沈船舶の生存者や遺族は軍機保護を理由に語ることを禁じられ、戦後も心の重荷につながった。

 平良さんらは今後、記念館で戦時撃沈船舶の企画展などを計画している。「誰が、何のために、かん口令を出したのか。それを考える場にしたい。記憶を私たちが記録しなければ、つながらない」。体験を継承し、新たな戦前とも言われる今に警鐘を鳴らす。 

(中村万里子)