prime

「対馬丸」の乗船勧めた姉 後悔し続けた80年 弟の手がかり求め、見つけた小さな“光” 沖縄


「対馬丸」の乗船勧めた姉 後悔し続けた80年 弟の手がかり求め、見つけた小さな“光” 沖縄 対馬丸に乗船し、命を落とした弟のことを涙ながらに語る又吉正子さん=9日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 前森 智香子

 後悔し続けた80年だった。1944年、県立第二高等女学校1年生だった那覇市の又吉正子さん(92)は3歳下の弟・国吉真英さん=当時(10)=に、本土へ疎開するよう説得した。真英さんは家族と離れるのを嫌がったが、対馬丸に乗船した。対馬丸は44年8月22日に撃沈され、真英さんは命を落とした。「弟が亡くなったのは私のせいだ」 

真英さんは那覇市久茂地にあった甲辰国民学校の4年生だった。優しくて、素直で、少し泣き虫。学童疎開の話が出た時、「絶対に行かない。お父さん、お母さんと離れたくない」と拒んだ。正子さんは「生きて国吉の名前を残してほしい。長男の役目だ」と繰り返した。

 出港が2日早い別の船に空きが出て、乗らないかと提案があった。両親は変更しようとしたが、正子さんは弟の気持ちをおもんぱかり「少しでも長く家族で過ごしたら」と勧めた。真英さんも同意し、予定通り対馬丸で8月21日に出航した。那覇港はごったがえし、十分に言葉を交わせなかった。

 数日たち、下校中に母が近所の家から出てくるのを見た。声をかけても返事はない。自宅に入ると母は背中を丸め、畳をかきむしり、声を殺して泣いていた。「真英が…。真英が…」。母の言葉で弟の死を悟った。その日から、両親は弟の話題を出さなくなった。

 那覇市旭町にあった自宅は米軍による10・10空襲で破壊された。旭町の住民は大宜味村饒波へ集団で避難した。食料が乏しく、過酷な生活だった。やがて一家で本島南部へ移動しようと試み、途中で会った日本兵から戦況を聞かされた。

 落胆した父は空を指さし「むこうに真英もいる。みんなで一緒に行こう」と死をほのめかした。泣いていた母を見て以来、父から弟の名を初めて聞いた。軍国少女だった正子さんが「今に神風が吹いて友軍が助けにくる」と反対し思いとどまった。その後、米軍に捕らえられ、大宜味村喜如嘉の収容所に入れられた。

 戦後、帰らぬ弟の手がかりを探し求めた。2017年、鹿児島県・奄美大島の宇検村で埋葬された犠牲者の資料に「国吉真永」とあると知った。1字が異なり弟と断定できないが、手厚く葬られた可能性を知り「冷たい海の底で怖い思いをしている」との長年の心の苦しみは和らいだ。その年、宇検村で開かれた対馬丸の慰霊碑の竣工式に参加した。

 両親は90代でともに亡くなるまで戦争の話にほとんど触れず、弟の死に罪悪感を抱いているようだった。那覇市若狭の小桜の塔で開かれる対馬丸慰霊祭にも参加できなかった。代わりに正子さんが毎年足を運ぶ。対馬丸撃沈から22日で80年。「戦争は残された人にも傷を負わせる。とにかく二度としてはいけない」

 (前森智香子)