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「娘の命ないのに、金だけもらってどうするか」対馬丸遺族、さまざまな思いを胸に あす撃沈80年


「娘の命ないのに、金だけもらってどうするか」対馬丸遺族、さまざまな思いを胸に あす撃沈80年 眞喜志トシさんの遺影(左上)と照屋一男さん=20日、対馬丸記念館(ジャン松元撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 那覇市若狭の対馬丸記念館に20日、新たに8人の遺影が掲示された。きょうだいや祖父母の存在を証明するため、あるいは供養、戦争の悲惨を伝えるため。遺族はさまざま思いを胸に遺影を携え、記念館を訪れた。今回新たに追加された8人を含めて対馬丸記念館に掲示されている遺影は計414人となる。氏名が分かっている犠牲者1484人の約4分の1にとどまっており、記念館は引き続き、遺族らに遺影の提供を呼び掛けている。 

 対馬丸事件で亡くなった姉のことを語る母の顔はいつも悲しげだった。国から支払われる補償金の書類を見るたび「娘の命はないのに、お金だけもらってどうするのか」と嘆いていた。母の死後、補償金は手付かずのまま残されていた。

 20日、対馬丸記念館に遺影が掲示された棚原佳子さん=当時(9)=の妹、朝野弘子さん(76)=那覇市=は振り返った。沖縄戦で苦しい思いをした兄は、つらい記憶を呼び起こすからと掲示に反対していた。兄が亡くなり7回忌を終えたのを機に、きょうだいで相談して遺影を託すことを決めた。姉が生きた証しを残したい思いもあった。

 朝野さんは今も海や川、水に怖さを感じる。水難事故のニュースからは目をそらしてしまう。「海で亡くなった姉のことを思うと息が苦しくなる。どれだけ苦しかっただろうせめて安らかに眠ってほしい」

 屋我地島の眞喜志トシさん=当時(31)=の遺影を掲示したのは、孫の会社員照屋一男さん(60)=沖縄市。2年前、トシさんの息子で屋我地国民学校の眞喜志健一さん=当時(7)=の遺影が掲示された。親戚から話を聞き、トシさんの遺影も一緒に掲示したいと感じた。

 照屋さんの母は沖縄に残り、対馬丸に乗船したトシさんと健一さんが命を落とした。トシさんは優しい人だったと母は語る。今後、トシさんと健一さんは並んで掲示される予定だ。照屋さんは「みんなに見てもらい、戦争の悲惨さも伝えられる。親子で一緒にいられるので、良い供養になる」と表情を緩めた。

 那覇市に住む佐敷達雄さん(65)は東京の実家をリフォームした際、父興禧(こうき)さん(96)の妹で対馬丸に乗船して亡くなった佐敷安子さん=当時(13)=の写真を見つけた。「叔母が沖縄に帰りたいと言っているような気がした」。事件から80年の節目に、記念館に託すことを決めた。

 興禧さんは60年以上前に東京に移住していたため「見に来る家族が少ないとかわいそうだ」と話していたが、達雄さんの話を聞き、掲示に同意してくれたという。達雄さんは「叔母が存在した証明になればいいと思う」と思いを語った。

 (外間愛也、前森智香子)

※注:興禧さんの「禧」はネヘン