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日本軍、目撃者に厳しく口止め 当時の児童ら、40年かけ「記録残さねば」疎開の体験つづる <海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>2 


日本軍、目撃者に厳しく口止め 当時の児童ら、40年かけ「記録残さねば」疎開の体験つづる <海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>2  「体験して初めて恐ろしいと分かる。若い人は祖先のたどった道をよく考えて頭を使わないといけない」と語る知名ユキ子さん=12日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 沖縄から長崎に船が到着すると、乗り込んできた憲兵が疎開してきた首里第二国民学校の児童らに告げた。「対馬丸の沈没を口外したり、故郷に手紙で知らせたりしたらスパイの罪でひどい罰を受ける」。日本軍や警察は対馬丸の撃沈を秘密にし、厳しく口止めした。一言でも漏らしたら殺される―。首里第二国民学校(現在の那覇市立城西小学校)の5年生だった知名ユキ子さん(90)=那覇市、旧姓・玉城=は恐怖を覚えた。

 1944年8月21日午後6時過ぎ、約5千人の疎開者が対馬丸、暁空丸(ぎょうくうまる)、和浦丸(かずうらまる)の貨物船3隻に乗り込み、軍の護衛艦2隻が挟む形で那覇港を出港した。知名さんら同校の児童らは暁空丸に乗った。22日夜10時過ぎ、爆音でぐらぐらと船が揺れた。対馬丸は撃沈された。暁空丸も、和浦丸との衝突や攻撃の危機に遭いながら24日午後、長崎に着いた。

 「雪を見られる」「温泉も食べ物もたくさんあるよ」。疎開前の甘い言葉に子どもたちは憧れを抱いた。知名さんも「旅行気分で、戦争の怖さも知らなかった」。子どもも大人も、期間は「2、3カ月」と聞かされた。

 やーさん、ひーさん、しからーさん(ひもじい、寒い、寂しい)。疎開した児童らの当時の心境を表す言葉の通り、首里第二国民学校の児童らも疎開先の熊本で凍傷や食料不足に苦しみ、空襲の激しさから移動も繰り返した。5年生の大城幸祐さん(90)=那覇市=も凍傷や食料不足に苦しんだ。

「戦争はだめよね、あってはいけない。いつまでも平和であるように相談して戦争しないようにするならいいね」と話す大城幸祐さん=2023年6月

 対馬丸の生存者とみられる数人と過ごした記憶もある。当時は気にとめることはできなかったが、今、その苦悩をおもんぱかる。目の前で家族や友達と突如死別し、さらに生きるか死ぬかの漂流も味わった。疎開先でも過酷な環境と寂しさでどれだけ大変だったろう、と。沈黙を強いられた首里第二国民学校の関係者らは2022年、疎開の記録を残さなければと疎開の記録冊子「五丈の松と大いちょう」をまとめた。編さんに40年近くかけた。

 大城さんの姉・島袋裕子さん(100)=那覇市=は学童集団疎開の世話人として、対馬丸の次の集団で那覇を出航した。対馬丸事件から5日後、鹿児島に入った。冊子に事件の負傷者を見舞った様子をこう記した。「真っ黒くなった痛々しい姿は運ばれてすぐだったと見えて、長い板の間の廊下に傷だらけの十人位の人がごろごろ転がっている状態」

「戦争はね、普段から怖いよ。怖いから何もしゃべれないしね」と語る島袋裕子さん=7月24日、那覇市

 その光景は今も目に浮かぶ。「背中にいっぱい傷があるし、おなかが痛そうにしている人もいる。かぶるものも敷くものもない。かわいそうで声も掛けられなかった」

 島袋さんも熊本で周りの人から対馬丸について「話すな」と言われた。戦争遂行のため、国は命を軽んじ沈黙を強いた。学童疎開の暮らしぶりは美談として伝えられた。「怖いよ、戦争は。何もしゃべれないしね」

 今、「有事」を理由に沖縄の住民を再び県外に避難させる国民保護計画が進む。強まる軍事的な動きに知名さんは「この流れをどう変えていくのか。頭を使って考えないと」と力を込めた。大城さんも戦前と重ね危機感をあらわにした。「自衛隊が宮古や八重山などに行き、戦争の準備みたいだ。日本を守るために沖縄に軍を置けば、どうしてもやられる」

 (中村万里子)