戦時中、住民は空襲から逃げることを禁じられ、消火を義務付けられていた。10・10空襲での人力での消火は「役に立たなかった」という証言記録もある。憲法と法政策の現在の専門家は「何が命を救う方法かを真剣に考え、議論し、国のやり方が一番だと思わないこと」と教訓をくみとる。
バケツで消火
「那覇市史 資料篇第2巻中の6」(1974年)に掲載された寄稿によると、那覇市の女性は訓練の日時が回覧板で知らされると、「非国民」と呼ばれないよう隣近所と参加した。水や砂の入ったバケツを持って走り、焼夷(しょうい)弾が落ちたら布団に包んで捨てるように言われ、こう記した。「実戦では、いかにくだらないことで、何の役にも立たなかったか身にしみて感じた」
別の那覇市の男性は「人力の弱さを見せつけられた」と記す。近所の家に焼夷弾が落とされ、7、8人でバケツリレーしたものの、火の勢いは衰えなかった。米軍機は1機目が焼夷弾を落とし、残る2機が消火活動する人らに機銃掃射したという。
第32軍の記録によると、10・10空襲では5回にわたる攻撃で当初、市民は消火に当たったものの、後半は全面的に避難し消火する人はほぼいなかった。軍は、県民が「恐怖のため犠牲的精神に欠けた」と、消火活動をしなかったことなどを甚大な被害の原因としている。
ナチスを模倣
住民への無差別爆撃(戦略爆撃)は、戦意や士気をそぐ目的で、世界で初めてナチス・ドイツが行った。日本はそのやり方で中国などで、米国はさらに発展させて日本で、それぞれ実行した。
一方、爆撃される側になった日本政府は「防空法」で罰則を付け「逃げるな火を消せ」と強いた。身をていして消火に当たらせた。戦意を高めようという狙いだったとされる。
早稲田大の水島朝穂名誉教授は10・10空襲以降、日本本土でも繰り返された空襲で、防空法が「住民の犠牲を増やした」と問題視してきた。「『逃げるな火を消せ』の裏返しで、みんなで逃げよう、といっても弾がきたら一発だ」と述べ、沖縄で今、国民保護法制で武力攻撃を想定したミサイル避難訓練が繰り返されることを当時と重ね、こう指摘した。「現代の防空法だ。不安をあおっている。無意味なことも政府が学校や職場で体系的に繰り返させると有意義なものに変わる」。勇ましいことに乗らず、武力を使わせないやり方を国や地域を越えて広げることが大切だと強調した。
(中村万里子)