ここのところ、すっかり袴田ひで子さんのファンになっている。
Eテレで10月5日に放送されたETV特集「巌とひで子 ~袴田事件 58年後の無罪~」にいたく感動してからは、ドキュメンタリーやニュースを片っ端から追ってしまう。
弟の無罪を勝ち取るあの胆力や執念はとても真似(まね)できるものではない。「ABEMA的ニュースショー」で語られていたことは、59歳で住宅ローンまで組んだこと。「私の自分の生きる希望として建てた。借金でもしていれば、自殺もしないだろうと」と、ひで子さんは言う。自分の生きている間になんとしても弟の無実を証明するのだという、その執念たるやすさまじい。
ふと「うない神」という言葉が浮かぶ。
ひで子さん自身がパワフルなのはもちろんなのだが、気力や体力だけでなく、兄弟を守る霊力や、運命を手繰り寄せる念力のようなものを感じてしまうのだ。
あまりスピリチュアルなことを信じていない私だが、死刑囚という生の希望を奪われるという究極の状況で、「うない」が事態を逆転させる突破口となった。そんな奇跡的な物語が現実となることに、ある種の畏敬の念を覚える。
地上戦を経験した私の曽祖母の話になるが、村の皆で摩文仁まで追い詰められた時、区長が「もうみんなで死ぬしかない」と提案したそうだ。
強制集団死、いわゆる「集団自決」が行われようとしていた。その時「死にたくない」とぐずったのが大叔母だったらしい。
曽祖母は、この子は末娘だから、家族を守るうない神だ。この子の言うことがきっと正しい。だから死ぬのはやめましょうと区長を説得し生還したらしい。
彼女たち―うない神たちの物語には、自分と他人の命を守り抜くという命どぅ宝の精神が宿っている。
その精神とは、生きること・生き抜くことへの執念を全うすることなのかもしれない。そこには、自ずと他人の生命を奪うことを否定する姿勢がある。
一方で、組織の名誉のために他人の生命を奪うことを正当化したのが、この国の検察だった。集団強制死に関しても、教科書検定において、旧日本軍の関与を示す説明記述がない状況が続いている。人を殺そうとしたことへの謝罪を拒否する、あるいは、その事実すら認められないあり方は歪(ゆが)んでいると思わざるを得ない。
そして世界ではロシアやイスラエルなど、己の名誉や国の威信のために人々を殺している権力者たちがいる。
命どぅ宝と、今一度この言葉に執念を燃やしたい。私は誰かのうないになる自信はないけれど、きっとこの世界のどこかで、私たちの見えないところで、うないの物語が生まれていると信じていたい。
1992年生まれ、浦添市出身。作家。京都大学法学部卒。2018年小説『入れ子の水は月に轢(ひ)かれ』で第8回アガサ・クリスティー賞を受賞。『社会・からだ・私についてフェミニズムと考える本』(社会評論社)に中編小説「龍とカナリア」を寄稿。