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政治資金の透明化 第三者の監視が必要 首相のバランス論は誤り<山田健太のメディア時評>


政治資金の透明化 第三者の監視が必要 首相のバランス論は誤り<山田健太のメディア時評> 参院予算委で答弁する岸田首相=1月29日午後
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 自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を受け、派閥は表面上解散の方向で、政治倫理審査会が開かれ反省の声が聞かれ、一般会計予算は予定通り年度内成立が確定し、すでに「政治とカネ」の問題は終わったかのような様相を示している。しかし、そもそもの政治資金の「違法」少なくとも「脱法的」な取り扱いは、何一つ解明もされていないし、是正の動きもない。しかも首相は、政治資金の透明化が表現の自由に反する可能性にまで言及した。なぜそういった理屈が成り立つのか、そして透明化のためにはどうすればよいのか、考えてみたい。

ヤミ資金

 今回の裏金事件を巡る国会審議で、岸田文雄首相は「政治活動の自由と国民の知る権利のバランスの中で、真摯(しんし)に議論に向き合いたい」(1月29日衆参両院予算委員会の集中審議での答弁)という。政策活動費が法で認められた「公認の裏金」になっているとの指摘に対し、「バランスを考えることが、日本の民主主義のうえで重要だ」と反論した。

 政治資金規正法は政治家個人への寄付を禁じる一方で、政策活動費の名目で政党から政治家個人に行う寄付は例外的に認めている。使途報告は不要のため、不透明さがつきまとううえ、党が年末や夏に、各議員が管理する党支部などに配る餅代、氷代という名称で、社会的にもその事態を黙認してきた側面が強い。

 そうした不透明なカネの流れ自体、問題とされるべきだが、今回の事例はより悪質で、派閥の政治団体が政治資金パーティーで得た収入を記載せず、裏金として議員に還流していた。元来の政策活動費と想定していた範囲を逸脱しており、しかもその大半は選挙資金として使われ、「選挙はカネがかかる」といういわば幻想を作り出している元凶になっていたわけだ。この言い訳を許すと、領収書がいらないヤミ資金であったにもかかわらず、政治資金の透明化の要求という私たちの知る権利が、政治家の活動を阻害していることになってしまう。

表現の自由

 政治活動の自由と知る権利を対立概念のようにとらえがちだが、実はどちらも憲法21条の表現の自由から導かれるものだ。表現の自由は歴史的には、権力を監視するプレスの自由(出版の自由)から始まっているが、行政が巨大化・複雑化したりメディアもまた権力化したりする中で、情報主権者として国民が直接、政府情報にアクセスする権利を認めることで、実効的に表現の自由を保障するために、知る権利が生まれた。

 一方で、首相が答弁の根拠としている八幡製鉄政治献金事件の最高裁判決は、憲法上、会社のような法人・団体も、公共の福祉に反しない限り、政治資金の寄付の自由を有するとした(1970年)。これに似た考え方は日本だけでなく米国にも存在し、政治支出は言論の一形態であって修正憲法1条(表現の自由条項)によって保護されるとの連邦裁判決がある(2010年)。さらに14年には、1人当たりの献金総額の上限設定にも違憲判決が出て、選挙資金規正法が事実上骨抜きになるとの指摘も強い。それでも米国は、憲法に保障されるべき政治的表現の自由を守ることに力点を置いているといえるだろう。

 しかしここでは二つの点で注意が必要だ。一つは、弊害の除去努力をしているか、である。日本の最高裁判決でも、自由によって金権政治や政府腐敗が生まれる可能性を指摘し、そのような弊害に対処する方法(立法)の必要性を指摘している。それが判決の中でいう「公共の福祉」理由による制限の正当性であろう。そしてもう一つが、監視による透明性の確保である。米国の場合は自由を保障する一方で、第三者による監視の制度を徹底することによって、献金と支出の透明化を実行している。いわば「公開」の完全義務化による透明性の担保である。

 いずれも基本的人権である、報道の自由と被報道者の人権(プライバシー)という2項対立によって、一方的に取材・報道の自由という表現の自由が制約される構図に追い込まれるのと同様、政治活動の自由というマジックワードによって表現の自由が貶(おとし)められることは看過できない。しかも、表現の自由の原点である権力監視の観点からも、黒いカネの流れの解明という中核的な知る権利=表現の自由の問題において、バランスの問題に置き換えること自体が誤りでもある。

法改正で解消を

 そのうえで、より具体的な現行政治資金規正法の問題点を挙げておきたい。いまの制度のままであると、政治献金を量的・質的に規制したとしても、その実態を私たちが知ることは叶(かな)わない可能性が高い。政治資金の不透明さの解消にはならない理由としては、(1)政治資金収支報告書が総務省、都道府県に分散管理・公表されていて、総体としてのカネの流れが把握できない、(2)PDFファイルでの公表のため、検索ができずバラバラの情報のままである、(3)約6万近く存在する政治団体の横断的な情報確認が事実上不可能である、(4)政治団体と政治家の紐(ひも)づけがないため、結局誰のカネなのかが特定できない、(5)政府・自治体による公表までに最長21カ月を要し、時効3年(36カ月)の時間的制約の中で問題があっても告発ができない、などがあるからだ。

 しかしこれらの問題は、ちょっとした法改正で簡単に解消できる。政治資金収支報告書を完全デジタル化し、データベース化することだ。これによって、第三者の監視がしやすくなるし、デジタルデータによる提出を義務付ければ、行政事務の簡素化にも貢献し公開のタイミングも間違いなく早まるだろう。地域の医療従事者のデジタル対応の困難さを黙殺してマイナ保険証の義務化を法制化した政府が、管理責任者の高齢化を理由にデジタル化が無理と言い続ける姿勢は理解できない。また、政治団体と政治家の紐づけを嫌がるのも、単に抜け道を確保したいがためとしか考えられない。

 もちろん、使途を明らかにしなくてよい政党から政治家個人への寄付を禁止することや、政治資金パーティーが実質企業献金化していることから集金パーティーを全面禁止することも必要だろう。しかしまずは、「火の玉となって自民党の先頭に立ち取り組む」(23年12月13日記者会見)覚悟を行動で示すのであれば、デジタル時代にあった法改正によって、まさに知る権利とのバランスをとってもらいたい。

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。