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奄美の宝「大島紬」守り継ぐ こだわりと挑戦 南祐和さん <奄美・復帰70年>


奄美の宝「大島紬」守り継ぐ こだわりと挑戦 南祐和さん <奄美・復帰70年>
この記事を書いた人 Avatar photo 新垣 若菜

 トルコのペルシャ絨毯(じゅうたん)、フランスのゴブラン織と並ぶ、「世界三大織物」に数えられる、奄美の大島紬(つむぎ)。1970年代には年間30万反を生産していたが、現在はピーク時の100分の1まで減り、年間3千反ほどだ。コトンコトンと奄美のあちこちの家から聞こえてきた織り機の音は、今では聞くことが難しくなった。「それでも残していく努力をしないといけない。奄美の大切な宝なんだから」。鹿児島県龍郷(たつごう)町の本場奄美大島紬の織元「夢おりの郷」の南祐和(ひろすけ)会長(77)はそう語り、手に持った紬をいとおしそうに見つめる。

「時代に合った大島紬の魅力の伝え方をしたい」と語る夢おりの郷の南祐和会長=15日、鹿児島県龍郷町
「時代に合った大島紬の魅力の伝え方をしたい」と語る夢おりの郷の南祐和会長=15日、鹿児島県龍郷町

 「紬」の言葉が確かな記録として残っているのは、「大島政典録」から。役人のみが着用を許されたとの記述が残る。明治から昭和初期にかけて、技術と品質の向上に伴い、ますます価値が高まっていた。米軍統治下だった8年間は本土との行き来が閉ざされたものの、復帰後は順調な発展を遂げ、生産は増大、売り上げもピークに達し、奄美の一大基幹産業となった。

 「親子3代で着る憧れの紬」「嫁入りのステータスシンボル」などと称され、着物愛好家だけでなく、圧倒的なブランド力も誇った。ついには、ローン会社が「憧れの紬が3年で」というキャッチコピーで売り出すほどだったという。

 南さんは30歳の時に、大島紬を作っていた父から声をかけられ、その時住んでいた東京から島に戻り紬づくりを始めた。当初はまだ紬が飛ぶように売れていたが、「いつか売れない時代がやってくる。その時に何ができるか」という考えが常に頭にあった。予想通り、紬は90年代以降は着物離れなどから、売り上げも低迷していった。紬を作る人もどんどん減少し現在、島の織り手は実働150人程度で、高齢化の問題にも直面している。

 「ただね、悲観するばかりじゃ始まらないんだよ。時代に合わせた届け方が大事なんじゃないかな」と南さん。22年前に、名瀬から龍郷町に移り、養蚕から生産、販売を一つの場所でできる会社を建てた。大島紬に憧れ、織り手を目指し、県外から移住してくる人のために、会社横には社宅も併設する。

 本場大島紬の手法とは異なる作品や、別の着物とのコラボレーションにも積極的に取り組む。「こだわるのも大切だけど挑戦することも恐れないようにしている。それが大切な大島紬を残していくことにつながっていると感じるから」。満面の笑みを見せ、紬への人一倍の愛情を誇った。

 (新垣若菜)