米軍統治下だった奄美で、日本復帰を訴え命がけで日本本土に渡った若者たちがいた。「島を愛する若者たちの思いを学び、自分自身も誇りの再確認をしたかった」。鹿児島県奄美市在住の観光ガイド、白畑瞬さん(38)は10年前、海を越えた若者たちの足跡をカヌーでたどるプロジェクトを発足させた。復帰70年の今年もパドルを手に横断に挑んだ。
白畑さんは当初、奄美の復帰に、若い世代が中心となって「密航陳情団」が結成され、それが運動のかがり火となって、その後の火花のような展開へと広がったことは詳しくは知らなかった。
「復帰は祭りではない。そこには苦労があって、それこそが継いでほしいものなんだよ」。復帰運動を主導した詩人、泉芳朗の秘書を務めていた楠田豊春さんとの出会いがプロジェクトのきっかけとなった。
10年前の出発地には沖縄県の国頭村を選んだ。先に復帰した奄美群島の与論島と沖縄返還を求めて海上集会が開かれた、つながりの深い場所だからだ。島々では密航した若者たちの関係者から話を聞いて回った。「当時を忘れないでいてくれて、挑戦してくれてありがとう」と感謝の言葉を受けながら、より一層過去の話にしてはいけないとの思いが強くなったという。約15日間かけてゴールの奄美市まで300キロを単独航海した。
今年7月には、奄美群島やトカラ列島の島々から20~60代の男女約20人が参加した。ゴールに選んだのは密航団と同じ、鹿児島市。並走する高速船と宝島を出発し、交代で6人乗りカヌーをこぎ続け、27日間かけて到着した。途中、参加した仲間と意見の食い違いや激しく議論することもあった。「それでも同じ目標があったから達成できた。当時も命がけの密航で同様のことがあったかもしれない」と思いをはせる。
今回の航海で得られた一番の収穫は、対話の大切さ、仲間との支え合いという。「島々や人との強い『絆』は本や資料では学べなかった」と強調する。
最近は、島の小中学校で講演の依頼を受けることも多い。復帰の話を語り継いでいく中で、過去としてではなく自分の経験も踏まえて「自分ごと」のように話せていると感じる。「当時の若者たちの思いは今の世にも結びつけることができる。挑戦してよかったと心から思う」。言葉に力を込めた。
(新垣若菜)