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“クリスマスプレゼント”と称された「日本復帰」<奄美の今・これから~復帰70年>1


“クリスマスプレゼント”と称された「日本復帰」<奄美の今・これから~復帰70年>1 日本復帰70年を振り返り「今の奄美は望んだ姿ではない」と語る重田シオリさん=15日、鹿児島県龍郷町
この記事を書いた人 Avatar photo 新垣 若菜

 日本復帰70年を祝うのぼり旗が各地で揺れる鹿児島県奄美大島。島の北部に位置する龍郷(たつごう)町の自宅でいつものように新聞を開いた重田シオリさん(90)は小学生が投稿した祖父の言葉に目が留まった。「復帰70年ってまつりごとにしとる。そもそも戦争なんてなければ、あんな難儀はせんでよかった」―。思わず赤ペンで線を引いた。復帰70年を祝う周囲のにぎやかさに何かなじめないのは、近頃戦争の臭いが濃くなっているように感じるからか。「復帰うんぬんよりも、また奄美が戦禍に巻き込まれ、日本本土を守る犠牲になるかもしれん」との不安が拭えない。

 1951年、奄美大島日本復帰協議会が発足し、本格的な復帰運動が始まった。その年、高校を卒業したばかりの重田さんは奄美大島連合婦人会の書記を務めることになった。「復帰を祈る」。そう書かれた旗を持って仲間たちと町中を練り歩いた。

「復帰を祈る」と書かれた旗を持ち復帰運動に参加する重田シオリさん=1951年(本人提供)

 同年末、採用待ちだった教職に就き、地元の龍郷町戸口の小学校に勤めることに。密輸で手に入れた日本の教科書を使い、行事では桜を描いた旗を日の丸に見立てて振った。「君が代」は歌えなかった。「米統治下では日本人でありながら日本人ではなかったのよ」

 奄美群島が日本に復帰したのは53年12月25日。「クリスマスプレゼント」と称された。近所の住民や子どもたちとちょうちんを持って歩き、喜んで復帰を祝った。ただ心には「戦争がなければ日本人だったはずなのに、復帰は戦争が残した負の遺産ではないか」との思いがずっとあった。

 教員として40年働いた後、戦争の語り部として依頼を受けるようになった。戦時中米軍の艦載機に追われ、空や海からの攻撃から身を守るため近くの壕に逃げた。バラバラと頭に砂が落ちてきたのは忘れられない。

 地上戦の結果、米軍基地が今も残る沖縄とは違い、奄美では目に映る戦争の面影は少ない。戦時の記憶が薄れつつある中「戦争だけは駄目だ」と繰り返し伝えている。

 だが、2019年、島に自衛隊駐屯地ができ、米軍との共同訓練ができる場所として合意された。「また戦争が来て、防波堤にされるのか」。

 自身も参加した復帰運動、そして勝ち取った復帰から70年。豊かだった自然は開発で姿を変え、島の人口は減り続けている。「本土並みを叫んでいたが、これが望む奄美の姿だったか。違う。いま一度、自然豊かで平和な本来の奄美に帰らねば。(復帰は)そう考える機会かもしれない」

 (新垣若菜)

 1953年12月25日に奄美が日本に復帰してから今年で70年。8年間の米軍統治、その後の奄美振興による島の変遷と現状、沖縄との関係などについて地元の人を訪ね「奄美の今」を考える。