prime

苦楽重ね100年の節目 ゆいまーる精神が原点 川崎沖縄県人会会長の金城宏淳さん<県人ネットワーク>


苦楽重ね100年の節目 ゆいまーる精神が原点 川崎沖縄県人会会長の金城宏淳さん<県人ネットワーク>  きんじょう こうじゅん 1949年9月生まれ。川崎市で育つ。高校卒業後、就職と同時に専門学校に通う。電気関係の会社に就職。計装工事に携わる。川崎沖縄県人会の副会長や理事などを歴任し、2021年から会長を務める。
この記事を書いた人 Avatar photo 斎藤 学

 沖縄県内でも有数の水産業の街・糸満市糸満が生まれ故郷。小学校に入学する前に父の宏徳さんと母のトミさんと共に川崎市へ生活の本拠が移った。6歳の頃。そのせいか「ほとんど故郷の記憶がない」。

 1972年の施政権返還の年を川崎で迎えようとしていた頃。叔父らを頼って両親の故郷を訪れた。川崎に移り住んで14年が経過し、成人となっていた。沖縄の海と空を改めて見詰めて、心底思った。「きれいだなあ、いい所だ」

 川崎で大半の人生を過ごしても「両親が県人会の役員をやっていて、子どもの頃から近隣の年会費の徴収に回っていた」と話す。そのため沖縄はいつも身近にあった。県人会青年部に入るのは必然の流れ。復帰する「ちょっと前」で、部員は当時「100人はいた」という。県人会でも復帰の式典をやることになって衣装や道具作りの準備を進めていくうち「沖縄を本格的に意識し始めた」。

 20代の後半に入ると青年部長に。主催したバスで行くハイキングを懐かしむ。「ミカン狩りや登山。レクリエーション。楽しかったなあ」。併せて沖縄からの新規就職者の激励会を開いたり、県人会主催の新年会や敬老会に参加したり。県内との結節点としての活動が県人会史として川崎には堆積し刻まれてきた。

 そして歴史は100年。振り返ると、今の川崎市に多くの沖縄出身者が訪れたのは1919年のこと。富士瓦斯(ガス)紡績への集団就職だった。
 「沖縄で富士瓦斯紡績が募集業務をしたのがきっかけだった」と記憶する。多くの人が移り住んだ川崎だが、23年に関東大震災が襲う。川崎も被害は甚大。「被災した人がたくさんいた。大混乱の中、沖縄のゆいまーる精神で人々の生活や帰郷の手続きで助け合い、支え合ったと聞いている」。それが県人会創設の機運を高め、1924年に発足する。

 人々を癒やしたのは郷土の文化だ。「いくら苦しくても歌や踊り、芝居を楽しむ」。人々が支え合うには共通の文化は欠かせない。戦前、そして戦後と、がむしゃらに生きる人にとって県人会は「沖縄」を絶やさず、つないで、心のよりどころを担ってきた。それだけに「なくしてはいけない」との使命感が今につながっている。

 会員世帯は最近微増し、約200世帯。恒例のイベント「はいさいFESTA」は地域の一大事業だ。先人たちの苦楽が積み重なって迎えた創設100年。「節目の年は県人会の原点を振り返る場。今まで県人会を支えてくれた会員への恩返しの場にしたい」と言う。 (斎藤学)