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普天間の移設条件に「国連軍」基地維持を要求 96年の米公文書で判明


普天間の移設条件に「国連軍」基地維持を要求 96年の米公文書で判明 米軍普天間飛行場に掲げられる日米の国旗と国連旗=2023年12月26日、宜野湾市
この記事を書いた人 Avatar photo 梅田 正覚

 1995年秋の米兵少女乱暴事件後に設置され、米軍普天間飛行場の返還を決めた日米特別行動委員会(SACO)で、米側が普天間飛行場が有する「朝鮮国連軍」としての基地の地位を維持することを移設条件に挙げていたことが15日までに、米公文書から判明した。

 嘉手納飛行場への統合案も「一つの選択肢」とある。仮に名護市辺野古の新基地が完成して普天間返還が実現すると、国連軍基地の地位が新基地に引き継がれることになる。

 米側のSACO作業部会が96年4月の普天間飛行場返還を発表する直前に作成したとみられる公文書「普天間海兵隊飛行場の移設」によると「朝鮮半島有事の際の軍事的拠点となる別の国連軍基地を提供しなければならない」と移設条件に挙げていた。72年の日本復帰時から普天間飛行場と嘉手納基地、ホワイトビーチは国連軍基地に指定されている。

日米特別行動委員会(SACO)の作業部会が作成した米軍普天間飛行場の移設条件を記した米公文書。移設条件として「別の国連軍基地を提供しなければならない」と記している(黄色いマーカーの部分)(川名晋史氏提供)
日米特別行動委員会(SACO)の作業部会が作成した米軍普天間飛行場の移設条件を記した米公文書。移設条件として「別の国連軍基地を提供しなければならない」と記している(黄色いマーカーの部分)(川名晋史氏提供)

 東京工業大の川名晋史教授が今月22日に刊行する「在日米軍基地―米軍と国連軍、『2つの顔』の80年史」(中公新書)で米公文書を示した上で、米側が国連軍基地の存在を重視し、ひそかに維持に努めていた経緯を明らかにした。

 50年の朝鮮戦争で発足した国連軍が今もなお、沖縄への基地固定化の一因となっている。

 96年3月の衆院外務委員会で普天間飛行場の返還について問われた橋本龍太郎首相(当時)は「普天間飛行場は、国連軍に提供しているという性格もあるため、取り扱いに極めて慎重な検討を要するということは間違いない」と答弁。一方、当時SACO共同議長を務めた秋山昌広元防衛事務次官は取材に、当時米側から国連軍基地に関する話は出なかったとした。

(梅田正覚)

国連軍 1950年の朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)に伴う国連安全保障理事会決議に基づき発足した。22カ国が戦闘・医療部隊を派遣した。53年の休戦以降、国連軍司令部は韓国・ソウルに、後方司令部は東京にある。日本は51年のサンフランシスコ講和条約調印の際、国連軍が在日米軍基地を後方支援拠点として活用することを認める交換公文を米国と締結した。現在、日本と国連軍地位協定を締結した12カ国が国内7カ所の米軍基地を平時から使用でき、有事の際も国連軍の補給拠点として利用できる。