「アンマー」「オワリはじまり」など、ストレートな歌詞と独特なサウンドで幅広い年代から人気がある「かりゆし58」のボーカル兼ベース、前川真悟(42)は35期生だ。「自由で伸び伸びとした雰囲気だった」と当時の校風を振り返る。バンドブームの絶頂期、校内には個性的なバンドマンが多くいた。前川自身も仲間とオリジナル曲を発信し、ライブハウスで公演するなど高校時代は、現在の音楽活動の原点となっている。
東風平町(現・八重瀬町)で生まれ、地元の白川小学校を卒業した。中学は県外の私立校に進学したが、中2の時に戻ってきて那覇市内の祖母宅から上山中学校に通った。小禄高校進学は同級生の多くが行くからという理由だった。後に母親の母校だと知った。
35期生は制服が学ランだったが、入学翌年にブレザーに変わった。「学ランを着た最後の学年。1学年下から制服変更だけでなく、進学を目指すコースが始まり進学校のような雰囲気になった」
しかし35期生は「自由を謳歌(おうか)していた」という。制服を適度に着崩し、髪型も厳しく指導されることはなかった。当時はバンドブームのまっただ中で、1学年に10ほどのバンドグループがあった。ブームは小禄高に限ったものではないが、「うちの高校にはダンサーやバンドマンが多くいて、街でイケてる学校の代表のようだった」。高校生ながら雑誌「ハンズ」の表紙を飾るグループもあった。
中学校でサッカー部だった前川は、中3の部活引退後に空いた時間でギターやベースなどを触るようになっていた。高校入学直後はサッカー部に入ったものの、夏休みが始まるころには退部、音楽への熱が高まっていった。
同級生を中心に5人でバンドをつくり、ギターを担った。音楽ジャンルはハードコア。シンプルなフレーズを熱いサウンドや激しいパフォーマンスで演奏した。
校内にバンドグループは多かったが、オリジナル曲を発信するグループは少なく、初期のころから注目されていた。国際通りにあったライブハウス「パロディ」で3カ月に1回ライブパーティーを開催。チケットは校内で全て売り切れ、300人を動員したこともあった。
バンド活動中心の生活だったが、授業や学校を休むことはなかった。バンド以外の友人にも恵まれた。豊見城市長の徳元次人は同級生、1、3学年ではクラスメイトだった。舞台で見せるハードコアとは違うフレーズを書きためて、ひそかに聞いてもらう仲だった。
模範的な生徒ではなかった。それを象徴するのが卒業式の延期だ。バンド仲間をはじめ20人ほどが10日ほど遅れて卒業式を持った。「単位の問題だったと思う」。延期中に課題などをこなした記憶がある。卒業式は、保護者も参加し、視聴覚室で行われた。羽目を外すと教職員から厳しく叱られたが、冷遇された記憶はない。「バンドをすればかっこいいと喜んでくれ、ダンスを踊れば拍手してくれた。いいところは褒めてくれていた」
卒業後もバンドを続けたが、それまで応援してくれた同級生たちがいなくなると、次第にライブチケットが売れなくなった。バンドは解散。20歳の時、県外でトラック運転手として働くことを決めた。楽器を全て手放した上での出発だった。
音楽から距離を取って働く予定だったが、トラック運転中に流れてくる音楽に触れて「好きなジャンル以外も親しみ、音楽の幅が広がった」。いったんは楽器を手放したが、運転手仲間らに聞かせるために曲を作るようになった。これまでのハードコアとは違い、メロディーのある曲だった。CDを自主制作し、沖縄のレコード店に置いてもらうと、2~3日後にレコード会社から電話があった。
「また音楽ができるかも」。3年間トラック運転手を続けて沖縄に戻った前川は、中高校のつながりでバンドを立ち上げ、2005年の「かりゆし58」結成につながった。
出会いに恵まれた高校時代。「十代ならでは栄養価の高さがあった」とその重みを話す。「色味が鮮やかな人が多かったからか、早い段階から人と比べることをしなくなった。それぞれベクトルが違う方向に向いている仲間だから今も楽しい」。個性的な先輩、同級生から今も刺激を受けている。
(文中敬称略)
(岩崎みどり)
【沿革】
1963年4月 開校
68年4月 通信制課程開設式(77年に泊高に移転)
70年7月 全国高校野球選手権沖縄大会で初優勝
71年7月 弓道女子チーム九州総体優勝
83年11月 九州地区吹奏楽連盟主催マーチングバンドコンテスト金賞
87年11月 全国高校サッカー選手権沖縄大会優勝
88年8月 全国高校総体ハンドボール男子で県勢初の全国制覇
90年8月 全国高校総体空手道個人型優勝
98年4月 コース制導入
2004年4月 コース制一部改変
(QRコードから校歌を聞くことができます)