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慰霊の日 痛みを重ね合わせる ひとりひとりの名前に 上間陽子<論考2024>


慰霊の日 痛みを重ね合わせる ひとりひとりの名前に 上間陽子<論考2024> 沖縄戦犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎」に手向けられた花=2023年6月23日、糸満市の平和祈念公園
この記事を書いた人 Avatar photo 共同通信社

 大きなやけどをしたことがある。鉄瓶でお湯を沸かそうとして、空だきした時のことだ。もう一度沸かそうと左手で取っ手を持ち、熱されて真っ赤になった鉄瓶に水を入れると、一気に蒸発し、水蒸気が噴き出した。

 しびれるような痛みを感じたのに鉄瓶を放さずに、こんろまで移動させようとして水蒸気を浴び続けたのもまずかった。蛇口をひねり、冷たい水に左手をさらした時には皮膚はもうぬるりと溶けて、心臓はずきんずきんと痛かった。

 病院に駆け込むと、まだどれだけの損傷かは判断できないがおそらくこの後、体液が出てきて水泡になること、これから24時間は薬で痛みをコントロールすること、患部が乾くのがよくないので水泡をつぶさないようにしながら徹底的に保湿することが大事、と医師は告げた。家にたどり着き、病院で処方された薬を飲むと、意識を失うように眠り込んだ。

 2時間後、強い痛みを感じて飛び起きると、左手はいびつな形になっていた。恐る恐るガーゼを外すと、そこにはセミか何かの幼虫のような、白濁してぶよぶよと膨らんだ指の塊が三つあった。清潔な部屋でのたうちまわりながら、こんな痛みはもう嫌だ、と思う。

 自分の存在がただの痛みになった中で考える。たかが指のやけどでこれほど痛いなら、放射線を浴びた人の皮膚はどれだけ深く痛むのか。生きながら槍(やり)で突かれた人は、どれだけ強い痛みを感じるのか。戦地をはだしで逃げ惑った人の身体は、どんな傷を受けるのか。

 そもそもこれまで取り組んできた女性たちへの聞き取り調査で、私は痛みについてしっかり聞いてきたのだろうか。祖父母に育てられたあの人は、ゴルフのクラブでたたかれた痛みを話していた。幼少期に暴力を受けていたあの子は、誰かに気付いてほしくて、痛い痛い痛いという手紙を書いてゴミ箱に捨てたと話していた。

 さまざまな痛みについて、ある個人の記憶、ある非常事態の記憶、ある戦場の記憶として聞くことで、自分と地続きの痛みだと捉えることを、私はどこかでやめたのではないか。こんな風にして私たちは誰かの痛みを忘れ去ろうとしていないか。

 出入国在留管理局の施設で命を落としたスリランカ人女性の居室のカメラ映像には、「病院に連れて行って」という彼女の懇願に応じない職員の様子が残されていた。

 「痛いよ、痛いよ」と水俣病の症状の中で死んだ妻のことを話す男性を前にして、3分間という持ち時間を超えたとマイクを切った官僚や、足早に立ち去る大臣の姿が報道されたのはつい最近のことだ。

 私たちの日常は、そこにある痛みを、すぐに忘却しようとする。だから時々、自分の左手に触れながら、あの日の私の痛みと誰かの痛みをそっと重ねて考える。

 79年前の3月末、沖縄の島々にアメリカ軍が上陸し、それから沖縄の地上戦は始まった。海からの艦砲射撃で、海岸線の形状さえも変わったことが、最新の研究で分かっている。

 旧日本軍第32軍のトップとして沖縄に君臨した牛島満司令官は摩文仁(まぶに)の丘(糸満市)で、最後のひとりになるまで戦い続けるように命じて自決した。それからも戦闘は続き、犠牲者はどんどん増えていった。

 牛島司令官が自決して組織的戦闘が終わったとされる6月23日は「慰霊の日」だ。沖縄戦で亡くなった人びとの名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」がある摩文仁の丘に続く道は、大渋滞となる。車椅子に乗って訪れる人、三線を弾く人、食べ物をお供えする人、その祈りは早朝から夜まで続く。

 礎に名前を刻まれる人の数は、今年で24万2225人になったという。ひとりひとりの名前の向こうに、のたうちまわるようなひとりひとりの痛みがある。

 今年もまた、慰霊の日がやってきた。沖縄の人びとが受けてきた痛みとあなたの痛みは、その日そっと重なり合っただろうか。こんな痛みはもう嫌だという、あなたの思いと沖縄の人びとの思いが重なり響き、痛みのない世界の方へ、私たちは歩みを進めることができるのだろうか。

(教育学者)
(共同通信)