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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>101 地域と組踊(6) 「二十四孝」、文学化し理解


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>101 地域と組踊(6) 「二十四孝」、文学化し理解 「大城大軍」を演じる南城市大里字大城区の区民=2013年、南城市の大城集落センター
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 もう一つ、地域で創作される組踊の特徴を考えてみたい。外題と前半部が欠落している「黄金の羽釜・里川の子」と「桑の果報」である。池宮正治は「黄金の羽釜・里川の子」の翻刻と解説において「この組踊は『二十四孝』の「郭巨(かくきょ)」の物語、あるいはその頃に刊行された『孝行物語』(一六六〇年刊)にもほぼ同様の郭巨物語が収められているので、これらのものに取材して作られたものである」としている。また、「桑の果報」は「二十四孝」の「蔡順」の話をそのまま組踊化したものであると考えられる。

 「二十四孝」は近世士族の初等教育に用いられた教材の一つで、高橋俊三によると「二十四孝」以外に「三字経」「小学」などを学んだという。各村(字)に置かれた学校所における教育も士族は上記の儒教道徳を学んでいた。平民(百姓)は野菜名・器具名・人名・諸教条などを学んだとされている。

 石垣に残る竹原家文書の『二十四孝』には、郭巨に「貧乏思供給 埋兒願母存 黄金天所賜 光彩照寒門」(貧乏供給を思ふ 兒(ちご)を埋(うみ)て母存(ははながらえる)を願ふ 黄金天(おうごんてん)より賜ふ所 光彩寒門(こうさいさいもん)を照(てら)す)、蔡順に「黒椹奉親闈 啼飢涙満衣 赤眉知孝順 牛米贈君帰」(黒椹親闈(こくじんしんい)に奉ず 飢に啼(なげき)て涙衣(なみだころも)に満つ 赤眉孝順(せきびこうじゅん)を知(しり)て 牛米君(ぎゅうべいきみ)に贈(おくり)て帰(かえら)しむ)とあり、近世末期の士族は初等教育として「二十四孝」を学んだことがうかがえる。士族は業務のために中国語や漢籍、漢詩などの教養が必要であるため、中国の書籍をもとに儒教を学んだが、平民においてはこれらを文字で学ぶ必要性は低いと考えられる。「二十四孝」そのものを読むよりも、その内容を「琉球文学化」したもの、すなわち、組踊化したものの方が理解しやすかったのではないだろうか。

 「二十四孝」と組踊の創作については、次のような事例も手がかりとなろう。伊波普猷は幼少期、「旧学校所」が閉鎖されていたので「漢学塾」のような所で「大舜」を教科書に学んだという。そこで隣の子がその「大舜」を「三十字詩の琉歌に訳したものを読んでゐた」という。その琉歌は「琰子が鹿皮を蒙(こうむ)つて、鹿の群に入り」、親の為に鹿の乳を採るというもので「鹿の皮よ蒙んて、鹿の乳よもとめ、親よ養たる人の……」と訳していたという。伊波の話は「大舜」の話となっているが、琉歌に訳されているのは「剡子」の話である。『御伽草紙』には「老親思鹿乳 身掛褐毛衣 若不高聲語 山中帯箭歸」(老親鹿乳(ろうしんかにゅう)を思ひ 身に褐毛(あかげ)の衣を掛け 若高聲(じゃっこうこえ)に語らずは 山中に箭(や)を帯(おび)て帰(かえら)ん)とある。比べてみれば一目瞭然だが、琉歌は漢詩の部分を訳したのではない。竹原家文書の『二十四孝』には原文を琉球語に訳してあり、そこに「鹿ノ皮ヲカブリ」「鹿ノ乳ヲ取リ」「親ノ望ヲ叶フサ(ント)」などの訳がなされていることからも「剡子」の主題を琉歌にしていることがわかる。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)