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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>102 地域と組踊(7) 儒教道徳の「教材」に


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>102 地域と組踊(7) 儒教道徳の「教材」に 10年ぶりに上演された南城市大城区の組踊「大城大軍」=11月13日、南城市
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 前回まで見てきたように、「二十四孝」を琉歌にして学ぶ環境が、明治初期の(言うなれば旧慣温存期の)沖縄にあったのであれば、王国時代末期や明治初期に「二十四孝」の内容を組踊にするような事例も考えられよう。その結果が「黄金の羽釜・里川の子」や「桑の果報」であると現時点では考えたい。今後、発見されるであろう組踊本の中に、同様の事例があることを期待したい。

 組踊の主題はすべて「儒教道徳」である。どの作品も儒教道徳を体現した者が主人公である。これは冊封の際の余興であったが故であるが、逆に組踊は儒教道徳を教えるための「教材」となり得たと筆者は考える。上演されずに地域に伝播した組踊や、地方において創作された組踊は、上演されることや読み物として用いられることで「教育」として受容された(伝播した)という仮説が立てられるのではないか。

 また、このような地域や教育と異なり、芸能として創作される事例がある。明治31(1898)年の「琉球新報」に掲載された劇評には「然れども此は単に現今の新作組踊が古人の作に劣れるを云ふに過ぎずして、若し今後に於て古人に勝る名作あらば、之を演じて観客の耳目を一新し、演劇の発達を図るは、役者の心得なるのみなず、現今組躍作者の心得べき務要なるべし」とある。記事には、現在確認できる中で最も古い「新作組踊」という用語が用いられている。さらに「現今組躍作者」という文言から、当時の芝居小屋で組踊を新たに創作して上演するという事実が確認できる。さらに、明治期の沖縄座・中座・球陽座・協和団などが行った芝居興行で上演された作品の中には、「大南山(でーなんざん)」「南山崩(なんざんくじり)」「仲んかりまかと」「忠義果敢」「聟取敵討(むくどぅいてぃちうち)」などが上演されたことが、新聞掲載の広告や劇評などから明らかである。これらの作品は、王国時代に創作された可能性も考えられるが、先の「琉球新報」の劇評を参考にすれば、それぞれの一座において新たに創作された作品である可能性も考えられる。

 さらにこの時期、組踊本が未発見で、演目名だけでは組踊か沖縄芝居なのか不明な作品(露梅之縁(るばいぬいん)・花見の縁・智軍之縁(ちぐんぬいん))の上演も確認できる。現在、地域で演じられている(あるいは組踊本が伝わる)作品には、このように芝居小屋で創作されて上演された作品があるかもしれないが、現時点では作品の創作年が不明であるため、今後、新たな資料の発見で明らかになることを期待したい。

 組踊の創作は近世において、冊封に上演するためという理由で始まり、地域では豊年祭の奉納芸能として創作され、近代になってからは芝居小屋で客を呼び込むための新演目という理由で創作されるという変遷がみえてくる。そこからは、組踊が単に王府の儀礼芸能という側面だけでなく、地域や社会に根ざしている芸能であることが浮かび上がってくるのである。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)