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手から手へ時代を越えるもの 又吉健次郎さんの金細工 河瀬直美エッセー <とうとがなし>(20)


手から手へ時代を越えるもの 又吉健次郎さんの金細工 河瀬直美エッセー <とうとがなし>(20)  蝶、花、扇をあしらった又吉健次郎さん作のブレスレット
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 トントン、トントント。リズミカルに目の前で槌音(つちおと)を響かせて作業の様子を見せていただいたのは、かれこれ3年ほど前の2021年秋のこと。金細工(くがにぜーく)またよし7代目又吉健次郎さんだ。このリズムを譜面に起こして持ち帰ったピアニストもいると聞いて、なるほど音楽のようだと感心した記憶がある。

 琉球王朝時代から変わらぬ手法で金細工を制作されている。首里王府の命で中国に留学して技術を学んだ初代から代々王府のお抱え職人さんとして「筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)」と言う士族の位を授けられていたのだそうだ。その技術の伝承に関わる注文控え書と大切な道具類は先の大戦にて焼失してしまった悲しい歴史がある。けれど、1960年代に民芸運動の陶芸家・濱田庄司さんの「もう一度琉球人にかえってくれ」という言葉に触発された健次郎さんの父誠睦さんが、ジーファーや結び指輪や房指輪の復元に力を注がれた。一度途絶えたものを復活させることの苦労は並大抵のことではない。

 その意志を継ぐとても優しいお顔立ちの健次郎さんはお会いした当時で90歳。今年で93歳になられる。お会いしてすぐ後に体調を崩されて工房に出ておられないと聞いていたので心配したが、最近はまたお元気にされているようだ。お父様の仕事ぶりは、その作品に息づいている。と決して超えられないご自身の至らなさを嘆かれていた。けれどそれは、まだまだこの先の鍛錬を自分に課している証拠でもあった。

又吉健次郎さん(右)と筆者

 9月も末だというのに、工房を訪れた日の沖縄はとても暑く、茹(う)だるような空気が駐車場からのくねった細い道を歩く最中にもまとわりついてくる。けれど、工房のある石畳の通りの先にブロック塀に蔓延(はびこ)った緑と絶妙なコントラストでブーゲンビリアの赤が輝いていた。思わず見惚(みと)れて写真を撮る。その光景は今でも脳裏に焼き付いて離れない。もっと大きな工房かと想像していたが、ブーゲンビリアの花の下にある間口1間(けん)の腰の高さの木戸を開いて通路をゆくと、10畳ほどの作業場に続く扉がある。白いラブラドールのカンスケ君がその日は出迎えてくれて、相棒の銀太くんと一緒に健次郎さんが作業をする姿を見守っている。

 当時、東京オリンピックの公式映画監督として作品を世に出す大役を果たすために、支えになる何か身につけるものがないかと探していたところだったので、ブレスレットを創ってもらうことにした。房指輪の7房から三つのアイテム蝶(ちょう)・花・扇を選んでもらった。蝶には吉方(きっぽう)への道案内、花には生活の彩り、そして扇には末広がりの福の意味があるという。少し時間がかかるという話だったが、ちょうどクリスマスの日にそれは手元にやってきた。ブレスレットが納められた桐(きり)箱の裏には「末広がりの扇はかりゆしのしるし 直美ぬ身に飾りて末の輝き」と書かれていた。90歳の翁(おきな)、健次郎さんの直筆。今では私の宝物だ。

 あの日から私の左手首にあるそのブレスレットが末広がりを指し示してくれるようになった。フックになった部分を引っ掛けて装着する形なのだが、しっかり止まっていたはずなのに、ポロッと落ちてしまう時があったり、はたまた家に帰って外そうとすると、二重に引っ掛かっていて取れなかったりする。ふと、これは何かのメッセージかと思った。そう思うと、モノも生きているのかもしれないと素直に感じる。様々(さまざま)な場面で使われる道具は、楽器や衣装や器具や車だって何だって、それらは使えば使うほど、使い手はもとより、それを創った人の魂のようなものが宿る。

 あれから3年の月日が流れ、工房のまわりの風景は様変わりした。けれど健次郎さんが手がけた房指輪のアイテムを使ったブレスレットはきっとこの先も私に何か大切なことを知らせてくれるのだろう。そしてそれは、手から手へ時代を越えて渡ってゆくものであり、最も大切な人間の営みだと思っている。

 (映画作家)