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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>110 地域と組踊(15) 移民先ハワイでも上演


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>110 地域と組踊(15) 移民先ハワイでも上演 「糸蒲の縁」を演じる子ども組踊塾の子どもたち=2020年2月、中城村吉の浦会館
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 組踊が地域に伝承されていくことや地域で新たに創作されていくことは、まだまだ解決せねばならない課題や謎が多い。しかしながら、本稿でみてきたように組踊は琉歌や琉球古典音楽、琉球古典舞踊とともに琉球文化圏全体において、一つの文化として確実にその根を下ろしている。

 沖縄だけでなく、近代に海を渡った移民のコミュニティー(ハワイや南米地域など)においても、組踊が上演されたり、組踊本がその地域で販売されたりしている事例がある。紙幅の都合上、すべての移民先での上演を挙げることはできないが、ハワイのオアフ島においては、大正11年(1922年)、カハウルで「純琉球劇」と称して組踊を上演している。同じオアフ島で場所は不明だが、昭和3年(28年)に組踊上演(演目不明)、その翌年には在布の県人たちによる「手水の縁」が上演されていることがハワイの新聞『日布時事』から読み取れる。

 それから、オアフ島ホノルルのリバー街(現River street)にあった「布哇屋旅館」の館主である山城徳助が「編集兼発行人」となった『琉球脚本 組踊集』(下巻)が、大正9年(20年)に沖縄で発行されている。これは山城が実際に編集したのか、あるいは出資しただけなのかなど、調査を進める必要があるが、現存する本書が「下巻」であることからは「上巻」を大正9年より前に発行していることが考えられる。また、山城が関わっていることから、本書はハワイでも販売された可能性が考えられる。

 この『琉球脚本 組踊集』と関係があるか不明だが、昭和2年(27年)には「山下商店」では、琉球のレコードとともに「組踊集」を販売していることが当時のハワイの新聞記事から分かる。「組踊集」は山城の関わった書であるのか、全く別のものを示しているのかは不明である。これらの事例まで含めると、組踊は琉球文化圏の人々にとって琉球のアイデンティティーを表象する文化であったと考えても良さそうである。

 現在でもなお、大城立裕を代表とした作家や、組踊の実演家による新作組踊の創作活動が行われている。さらに古典作品だけでなく、中城村の南上原で上演されている「糸蒲の縁」のように、地域特有の新作組踊が上演される事例もある。

 組踊という文化を考えるとき、王府芸能から始まり、時代とともに「古典」の一部は芸能家だけでなく地域にも受け継がれ、さらに現代において新たな作品が誕生していることが分かる。このような事実から、組踊は「生きている文学(芸能)」であるということが言えるのではないだろうか。

 (鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)