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諸国と異なる帝王像 琉球独自の象徴性を構成<返ってきた御後絵・その意義と価値>上


諸国と異なる帝王像 琉球独自の象徴性を構成<返ってきた御後絵・その意義と価値>上 米国から返還された第18代尚育王(在位1835~1847年)の御後絵(県提供)
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 戦時中に沖縄から持ち出された文化財22点が、今年3月に米国から県へ返還された。その中には、歴代琉球国王の肖像画「御後絵(おごえ)」も含まれていた。御後絵を巡っては、戦後初めて実物が確認されたことから、今後、描写や色彩などの研究が飛躍的に加速することが期待されている。御後絵の研究に携わる県立芸術大学芸術文化研究所共同研究員の平川信幸氏に、御後絵の歴史や芸術的価値について寄稿してもらった。

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 FBI美術犯罪チームのジェフリー・J・ケリー特別捜査官の「その国の文化的アイデンティティーはまさに工芸品と歴史に集約され、それが文化をつくる」という言葉は、御後絵をはじめとする琉球芸術の価値を象徴的に示すものだと感じた。今回、発見された御後絵が琉球絵画史上どのような価値を持つのか、あらためて説明したい。

 御後絵は第二尚氏の歴代国王の肖像画で、王家の菩提寺(ぼだいじ)である円覚寺に祭られていた。また、正式には首里の言葉で「うぐい」と発音される。琉球処分後に、尚家の屋敷である中城御殿(なかぐしくうどぅん)に保管されていたが、沖縄戦で県外へ持ち出された。そのため、17枚描かれたことが分かっているが、大正10年頃に調査を行った鎌倉芳太郎の『沖縄文化の遺宝』(以下は『遺宝』)に収録されている10枚のモノクロ写真のみでしか見ることができなかった。今回、FBIの発表や新聞報道によると『遺宝』に掲載されている「尚育王御後絵」、「尚敬王御後絵」に加え、これまで知られていなかった「尚清王御後絵」と国王不明の4枚が出てきたことになる。

明・清代の変化

 御後絵は図像の変化、特に国王衣装によって明代と、清代の二つに分けることができる。明代、琉球は中国皇帝より皮弁冠・皮弁服を授与されていた。琉球において、皮弁冠・皮弁服は、国王衣装として最高のものであった。御後絵の国王衣装は、授与されたものに道教などの外来の神々や中国古来の帝王の姿を借りながら、荘厳な国王イメージを作り上げていった。

 王朝が漢族の明から満州族の清に交替し、中国の衣冠制度が大きく変わると、皮弁冠・皮弁服に代わり蟒緞(もうどん)が授与されるようになる。琉球では授与された蟒緞で、明代の皮弁服をまねて国王衣装を作製していく。特に儒教を中心にした中国的な規範が王国に定着していく18世紀になると、清から授与された蟒緞を用いた、「尚敬王御後絵」のような多くの龍が配された国王衣裳が製作される。皮弁冠についても冠を固定する飾りひもをつけ、玉飾りの数を増やし豪華になっていった。御後絵はこうした国王衣装の変化を反映している。

 18世紀以前に描かれた御後絵の制作はよく分からないが、それ以降については御後絵を描いた絵師の家譜によって分かっている。御後絵は国王の死後に、王府の絵師によって制作された。制作する際、絵師は国王の私的空間である御内原によばれ、国王の顔をデッサンしている。御後絵を制作したのは、殷元良(座間味庸昌)や毛長禧(佐渡山安健)などいずれも、琉球を代表する絵師であった。また、琉球の絵師にとって、国王の肖像画である御後絵の制作は最高の栄誉であった。こうした背景から、御後絵は琉球を代表する絵師たちが技巧を尽くした琉球絵画史上において最も重要な文化財である。

絹本著色「後陽成院像」(17世紀初)(御寺泉涌寺提供)

天皇はシンプル

 近隣諸国の皇帝や国王の肖像画と御後絵を比較すると、琉球だけでなく東アジア地域においても特筆すべき美術作品であることが分かる。御後絵の図像は国王像、背景、家臣団の三つから構成される。対して、中国の明「成祖(永楽帝)坐像)」、清「康熙帝朝服像」や朝鮮王朝の「太祖(李成桂)御真」は、中央に皇帝、または国王を描き、背景が無地か、龍を描いた衝立と、床が絨毯(じゅうたん)と単純な構造となっている。

 日本の肖像画と比較した場合、その違いはより際立つ。社会的な役割が異なる、琉球国王と日本の天皇や将軍の肖像画を比較するためには、慎重にその対象を選ぶ必要がある。第二尚氏が琉球国を治めていた15世紀~19世紀、日本の政治体制は中国や朝鮮、琉球とは大きく異なり、伝統的権威を持つ天皇と、政治的な実行力を持つ将軍などに分かれていた。そうした中で、御後絵が描かれた16~19世紀、同時代の天皇の肖像画も盛んに制作されていた。特に、京都泉涌寺に格護されてきた、桃山から江戸末期に至る歴代天皇の肖像画群は、天皇の死後に制作されており、御後絵と類似する制作背景がある。以上のことから泉涌寺に格護されている天皇像の中で、標準的な「絹本著色後陽成院像」と御後絵を比較すると、御後絵の特徴はさらに明確になる。天皇の肖像画は独自の衣冠束帯を纏(まと)い、畳に座る像主を中央に配したシンプルなものとなっている。対して御後絵の国王像は椅子に腰掛け、明の皮弁冠・皮弁服、もしくはそれらを基にした国王衣装を身に纏っている。

 明の皇帝や朝鮮国王が椅子に座り、明の衣装を纏うのは、その国の習慣や衣冠制度を反映したものであり、天皇が畳に座り、衣冠束帯を纏うのも、日本の習慣や衣冠制度を反映したものだといえる。

 このことから、室内の家具や道具類、家臣団など多様な図像で構成されている御後絵は、中国・韓国の帝王像や日本の天皇像の図像と大きく異なっていることが理解できる。

 一方で、御後絵と東アジアの国々の帝王像と比較すると、構図の正面性、中国の儒教的な世界観を意識させる衣冠や、椅子に座った姿勢などが共通している。御後絵は、中国の宗廟などで祭祀(さいし)の対象として描かれた帝王像の影響を受けて成立したと考えられるが、独自の世界観を多様な図像によって表現した特徴的な肖像画だといえる。描かれた図像は、龍や瑞雲など伝統的で特殊なものではないが、それらが何らかの象徴性を持ち、構成されることによって琉球独自の国王イメージを形づくり、東アジアの諸国の帝王像とは異なる特別な意味を御後絵に与えている。


 平川 信幸(ひらかわ・のぶゆき) 1976年、沖縄市生まれ。別府大学文学研究科博士課程前期文化財学専攻修了。県立芸術大学博士課程後期修了、博士(芸術学)。専門は琉球・沖縄絵画史。県立博物館・美術館の立ち上げスタッフとして美術品、歴史資料の調査に関わる。2023年から同館主任学芸員。24年に著書「琉球国王の肖像画『御後絵』とその展開」を発表した。