かつて那覇市の平和通り入り口付近には、通り名の由来となった映画館「平和館」があった。実は宮古島にも同名の劇場が存在したのをご存じだろうか。今回はその映画館を造った男のエピソードを書きたいと思う。
真栄城徳松(1911年生まれ)は、戦前より実業家や政治家として宮古内外で名をはせた人物。戦後のサクセスストーリーの出発点が映画館経営なのだ。
そもそものきっかけは45年8月に疎開中の妻子に会うために台湾へ渡ったことに始まる。到着直後に日本の敗戦を知った真栄城は、島へ帰るために現地で船を購入。いつしか疎開引き揚げ業務と同時に、ブローカーとして食料や日常物資、医薬品、米国製タバコ、家畜などを満載して、台湾、先島、沖縄本島を往復するようになる。ときには沖縄本島の米軍基地から物資を頂戴する「戦果アギヤー」も行った。これも食糧不足にあえぐ人々のためだった。
あるとき運命の出会いが訪れる。実業家の高良一という旧知の友人が宮古にやってきた。彼は米軍の特命を受けて、本島には残っていない帝国法規を探しにきたという。
後日、高良は映画興行を始めることを決意する。そこで思い出したのが物資不足の沖縄本島と違って密貿易で景気の良い宮古島だ。さっそく映写機とフィルムを調達するべく47年に再度来島。それらを名護の許田港まで船で運搬したのが真栄城である。当時は沖縄本島と先島の行き来は制限されており、いわゆる密輸であった。なお、高良に引き渡された映写機とフィルム3本は、戦前に宮古で映画館「新世界館」を営んだ活弁士・山田義認(戦後は壺屋で「琉球映画劇場」を創設)から購入したものだ。高良はその映写機とフィルムで、戦後沖縄初の公的許可を受けた映画館『アーニー・パイル国際劇場』を始めた(48年1月21日正式開館)。
一方、危険なブローカー稼業に疑問を感じていた真栄城も映画館を始めることにした。すでに宮古島には「太平劇場」や「中央劇場」が誕生していたが、沖縄芝居の一座が興行を打つ芝居小屋であり、常設映画館はまだなかった。
真栄城は映画館建設に必要な資材調達のために本土へ渡るのだが、当時は戦後の混乱期であり、さらなる波乱が待ち受けていた。次回に続く。
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)