かつて、配給会社「国映」の看板絵師として活躍した具志堅実さん(1958年生まれ)。小学生から絵を書くのが好きで、沖縄工業高校のデザイン科に進学。卒業後、千葉県の木工所に就職して3年ほどたった頃のことである。
「同級生が『国映』の映画看板師になったんだよ」
休みの度に東京で日がな一日映画看板を見ていた実青年にとって、その仕事は憧れだった。
やがて同級生から「うちのアトリエで先輩が定年退職するので空きがでる」との情報を得て帰郷。就職のチャンスをうかがった。
「よく若松国映(現・ホテルリゾネックス那覇の敷地)のアトリエに遊びに行っては、先輩たちに自分の絵を見せてアピールした」
そのかいあって23歳で「国映」に入社。実さんは練習に励んだ。
「最初はひたすら文字や線を引く。それができるようになったら、先輩の絵に題名や役者名を書いていく。次に脇役の絵…と、できることを増やしていった」
入社3カ月後には成人映画の看板を任せられた。
「一週ごとに作品が変わるから、月火水で絵を描いて、木曜日で文字、金曜日の夜で取り付けをする。その繰り返し」
一方でこんな苦労もあった。
「看板の題材には使えない宣材だけの作品もある。そのときは、週刊誌のグラビアから裸の女性を探してきて、それっぽく描いたりした(笑)」
いつしか一般映画の看板を描くまでになった実さん。中でも思い出深いのは、「東宝劇場」(現・国際通りのれん街の敷地)に掲げた超大作『敦煌(とんこう)』(88年)の巨大看板である。
「取り付け直後に、他のアトリエの人たちがやって来て『若いやつがすごいのを描いた』って驚いていた。うれしかったね」
当時、沖縄には実さん所属の「国映」に加えて「オリオン」と「琉映貿」の3つのアトリエが存在した。
「国映は早くシンプルに、でも奇麗に描くかが勝負。オリオンと琉映貿は芸術タイプ。一緒に酒を飲んだりボウリングしたり仲良くしていたよ」
その後、2000年に看板屋さんとして独立した実さん。フリーハンドで流麗な文字や絵を描ける職人は今や貴重で、現役として活動し続けている。
「沖縄にある運動会用テントもかなりの数を描いたはず」
さらには大みそかに全国中継されていた総合格闘技の特製リングマットも手掛けていたこともあるという。
「描くスピードには自信がある。映画看板の仕事で鍛えられたからね」
(シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)