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映画看板師 喜名景昭 技法を未来に伝える <沖縄まぼろし映画館>164


映画看板師 喜名景昭 技法を未来に伝える <沖縄まぼろし映画館>164 喜名さんと自作の映画看板(撮影:平良竜次)
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 かつて映画看板師として活躍した喜名景昭さん(1947年生まれ)。そのきっかけは、中3で出会った男性の一言だったという。

 「結核で金武の保養院で療養していたら、同室に画家の男性がいてね。石原裕次郎の絵を描いて見せたら褒めてもらった。それで自信がついて、絵で食べていこうと決心したんだ」

 映画看板師になろうと18歳で「沖映」に入社したが、同社は映画から沖縄芝居興行にくら替えした頃だった。

 「沖映本館で上演した『おきなわ』の看板を描いたのだけど、大ヒットしてロングランになったから、次の芝居の看板を描く必要がなくなってしまった」

 看板を描く仕事がないと「沖映」を退職、19歳で「琉映貿」に入った。

 「アトリエは大洋劇場(那覇市の神里原)のスクリーン裏側。そこが閉館(1970年)すると、今度は開南琉映に引っ越し。あてがわれた倉庫が狭くて、看板を描くのに苦労したよ」

 アトリエには8人もの看板師がいた。

 「那覇とコザの劇場の看板に加え、街角に掲げる野立て看板もあるから、描いても描いても終わらない。台風が接近すると看板を外す作業も発生して、もう大変」

 他の会社に所属する映画看板師たちとの交流も盛んだったそうだ。

 「会社の枠を超えた仲間。絵の話はしなかった。ライバルでもあるから、あえて触れなかったのかもしれない」

 充実した日々だったが、映画館が減るとともに仕事も減った。「琉映貿」のアトリエも2000年初頭に閉鎖された。しかし、喜名さんは描くことを止めなかった。活動の場所を映画館から町中へと広げたのだ。

 「桜坂の角々に映画看板を設置したら話題になってね。琉映貿の社長が『地域おこしで頑張ってくれているから』と、僕だけのアトリエを桜坂シネコン琉映に作ってくれた」

 2005年に琉映貿が映画興行から撤退して「桜坂シネコン琉映」が閉館。同年に新しい運営会社により「桜坂劇場」として復活した後も、喜名さんのアトリエは変わらず存続した。

 「桜坂市民大学(桜坂劇場で行われている市民講座)では、映画看板で培った技法を教えたよ」

 残念ながら、一昨年からのコロナ禍で講座は中断しているが、今は巣立っていった「弟子」たちの活躍が何よりの楽しみだという。

 「看板屋になった人もいるし、画家もいる。漫画家になった人もいる」

 そう言うと、喜名さんは漫画雑誌をうれしそうに見せてくれた。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)