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嘉手納第二東映? 館名 祝幕にヒント <沖縄まぼろし映画館>168


嘉手納第二東映? 館名 祝幕にヒント <沖縄まぼろし映画館>168 これが「嘉手納第二東映」だとすると1960年5月頃の撮影となる(提供:町田卓二)
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 今から8年前のこと。嘉手納町在住の町田卓二さんからの紹介で、同町にあった映画館で働いていたという卓二さんの父・清さん(1930年生まれ)のお話を聞く機会に恵まれた。

 「軍作業の合間に、劇場を建てた父の手伝いをときたましていた。キップを切ったり、コザの『諸見劇場』までフィルムを受け取りに行ったり。忙しかったから劇場の名前は覚えていない」

 劇場の写真には、館名はおろか上映している映画の看板やポスターもない。2階から垂れ下がる祝幕には館名の「嘉手納」まで見えるが、その下が裏返って見えない。しかし、その左に書かれた「琉球映画貿易」の文字とロゴを見て、配給会社「琉映貿」傘下の映画館であることは分かった。

 嘉手納にあった琉映系劇場といえば60年5月に開館した「嘉手納第二東映」がある。清さんの指し示す場所(嘉手納ロータリー沿い北側)にあった映画館だ。経営者は町田宗俊、ほか数人いたという。名称は「東映」が同年に「第二東映」を設立したことがきっかけで全国に専門館が誕生しており、ここもその一つである。

 だが、清さんの話には時間的なズレがある。手伝いを始めたのは高校卒業後から20代のこと。さらに、父親は52年に52歳で亡くなっている。「第二東映」開館前だ。

 そこで考えられるのが、49年に開館した「嘉手納劇場」だ。清さんによれば、父親は嘉手納の書店「ヤスモリ」の家族と劇場を営んでいた。50年発刊の「演劇と映画5月号」には「嘉手納劇場」の経営者は安森盛廣(原文ママ)となっており、その姓からつながりが推測できる。「第二東映」はその後継だったのではないか。

 話を「嘉手納第二東映」に戻す。清さんによれば、劇場で火事があったそうだ。「私の戦後史第5集」(沖縄タイムス刊)では、金城カネという人物がその件に触れている。彼女は50年代半ばに「第二東映」の株主の一人として経営に関わる。しかし、60年代半ばに火事で消失しために手を引いたという。

 「第二東映」は火事で閉館した…という近隣住民の証言も得ているのだが、一方で気になる記録が琉球政府の「興行場営業許可台帳」にある。そこには64年7月14日に「第二東映」の敷地とほぼ同じ住所で「嘉手納オリオン座」という劇場の許可申請がなされているのだ。しかも申請者名は前述の町田宗俊。清さんの記憶では洋画も上映していたというので、洋画メインの配給会社「オリオン」の作品を取り扱うために、その場限りの名称で申請しただけかもしれない。

 調査の概要を伝えようと久々に連絡したのだが、残念ながら清さんは6年前に逝去されていた。ご冥福をお祈りするとともに、映画館調査は一刻の猶予もないことを痛感した。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)