故・町田清さん(1930年生まれ)よりご提供頂いた、「嘉手納第二東映」(嘉手納ロータリー沿い)と思われる写真(前々回に掲載)から始まった物語。関係者の証言やさまざまな文献を得て、この劇場は「嘉手納館」として開館し(写真参照)、続いて「嘉手納オリオン座」に名称を変更。その後に「嘉手納第二東映」に…という変遷が見えてきた。清さんの実父はこの劇場の経営者の一人、町田宗俊である。
今回は清さんのおい、H・Kさん(55年生まれ)に話を聞いた。
「嘉手納館のことは分かりませんが、嘉手納オリオン座については叔母から聞いていました。僕が幼い頃はオリオン座になっていたそうです。洋画専門館だったので米兵がたくさん来てにぎやかだったと言っていました」
配給会社「オリオン興業」の設立が51年2月13日。その本拠地である「オリオン座」が那覇市の桜坂に開館するのが翌年の6月22日。「嘉手納オリオン座」の名称になるのは少なくともそれ以降だと思われる。
叔母の町田末子さん(40年生まれ)が読谷高校の生徒だった頃、社会見学の一環として映画鑑賞会が行われることになった。その際、彼女の家族が営む映画館だからと「嘉手納オリオン座」が選ばれたという。担任の先生は、そのことを同級生の前で説明してくれて、末子さんは鼻高々だったという。
そんな「嘉手納オリオン座」にある事件が起きる。
「従業員に金を持ち逃げされたそうです」
当時、「オリオン興業」チェーンでは先払いが慣例。しかし支払う金を持ち逃げされたのでフィルムを貸してもらえない。そこで「琉映貿」チェーンにくら替えして、1960年に「嘉手納第二東映」として再出発することになった。
「親戚の映画館だからタダ見です」とH・Kさんは笑う。劇場はブロック積みで広く、屋根は木造。2階席は畳間だったそうだ。
「アニメの『わんわん忠臣蔵』(63年)や『サイボーグ009』(66年)。他に千葉真一が出ていた『黄金バット』(66年)、『大忍術映画ワタリ』(66年)。『ガメラ』や『大魔神』も見ました」
前回の記事で「嘉手納第二東映」は66年6月末頃に閉館したと推測した。しかし、H・Kさんは中学2~3年生頃まで劇場に通っていた記憶があるという。さらに、劇場の出納帳に68年6月までの入出金が記載されていたことが判明。その時期まで営業していたことが分かった。
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)