現在、「首里劇場」(1950年開館)が解体工事中だが、それに先駆けること今夏に取り壊された映画館がある。北谷村謝苅三区(現在の北谷町吉原)の三差路にあった「ナポリ座」だ。
琉球政府の「興行営業許可台帳」には1955年10月6日に営業許可が出されているが、「沖縄商工名鑑・59年版」では56年3月の設立となっている。代表者は照屋秀、上間友誠、宮里朝助の3人。鉄筋2階建てで定員は360人。映画配給会社の「国映」「沖映」と契約したと記されている。
劇場が建つ謝苅は、沖縄の戦後史を象徴する場所だ。戦前は「ジャーガルミチ」と呼ばれる、昼でも薄暗い山道だった。戦後、平らな土地を米軍に接収された北谷の住民は、この丘陵地に移住せざるを得なかった。
やがて謝苅には軍雇用員を相手にした飲食店やバーが立ち並び、大いににぎわう。その客足を当て込んで建てられたのが「ナポリ座」だ。だが、謝苅の繁栄も長くは続かず、コザに特飲街ができると徐々にさびれていく。「ナポリ座」もテレビの普及により60年代に廃館になったという。
だが「ナポリ座」の建物だけは残り続けた。地元を代表する目印として、またエイサーの演舞場所として長らく愛された。私が訪れた2014年8月の時点で1階部分は駐車場、2階は会社事務所になっていた。「映画関係のイベントをしたい」という地元の声もあったが、実現を見ることなく今年7月に取り壊しの日を迎えた。
ネット上には「ナポリ座」が消えることを惜しむ人々の声が散見された。全国各地の映画館を訪ねることをライフワークとする古波蔵千尋さんは、取り壊されていく「ナポリ座」の姿をそのつど撮影。それをX(旧ツイッター)で見かけた1級建築士の普久原朝充さんは、この劇場がRC造の躯体(くたい)に木造小屋組みの混構造であることを指摘した。本稿の監修を務める當間も解体中の劇場を訪問し、斜面に建てられていた劇場の地下部分が住居となっていることを明らかにした。
さら地となった「ナポリ座」だが、ネットの集合知によって、その存在を多角的にアーカイブされた…と言えるのではないか。
(シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)