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平和館(戦前) 客に背中を向けた弁士<沖縄まぼろし映画館>177


平和館(戦前) 客に背中を向けた弁士<沖縄まぼろし映画館>177 平和館(那覇市歴史博物館所蔵)
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 沖縄芝居の舞台美術家・新城栄徳さんは1938年生まれの85歳。幼い頃に過ごしたのは、戦前まで那覇市の中心地だった西本町(現在の西1丁目)である。自宅の周囲には商店や食堂、理髪店、病院などが立ち並んでいた。劇場も数軒あったという。

 「家のそばには平和館と旭館(当初は旭劇場)。ちょっと歩けばコンクリート建ての新天地劇場(通称イシヤー)。隣町には芝居小屋もあった」

 栄徳さんがよく通ったのは「平和館」。『沖縄劇映画大全』の著者・世良利和氏の論文「初期沖縄映画史の諸相」によると、1920年に開館した映画専門館で、開業当初の収容人数は800~900人程度だと推測している。戦後に開館した「平和館」とは関係はない。

 「受付が親戚のお姉さんなので無料で入れた。毎週、新作が掛かる度に見に行ったよ。映画はほとんど時代劇。嵐寛寿郎の映画が好きで、まねしてチャンバラごっこをしたね」

 「平和館」では32年よりトーキー映画が上映されていたが、栄徳さんは無声映画しか見たことがないそうだ。驚いたのが活弁士の立つ場所だ。通常はスクリーン脇の舞台に立って客に語りかける姿を想像するが、栄徳さんの記憶だと「舞台と客席の間に置いたテーブルと椅子に座り、客に背中を向けてマイクで映画の声を充てていた」という。

 太平洋戦争の終盤になると、西本町は日本軍の兵隊たちであふれた。大きな建物は次々と駐屯地となり、「平和館」も接収された。

 「横暴な兵隊もいたよ。町の往来で銃剣を突きつけられてね、あれから兵隊が嫌いになったよ」

 そして44年10月10日、米軍の空襲により西本町は焼き尽くされた。栄徳さんの家も「平和館」「旭館」と共に消失し、「新天地劇場」は廃虚と化した。栄徳さん一家は、米軍機を狙って高射砲が火を噴く首里を抜けて与那原に避難。さらに祖父がいる粟国島へ疎開したために沖縄戦の惨禍を逃れることができた。

 「戦後は開南に移り住んだ。いま振り返ると、小さい頃を過ごした西本町の思い出は、まるで夢のようだよ」

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)