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宮古国映館(現よしもと南の島パニパニシネマ) 何度もよみがえる映画館<沖縄まぼろし映画館>179


宮古国映館(現よしもと南の島パニパニシネマ) 何度もよみがえる映画館<沖縄まぼろし映画館>179 建物上部に「宮古国映館」のロゴが今も掲げられている「よしもと南の島パニパニシネマ」=2月、宮古島市
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 「宮古国映館」は宮古島市の平良西里にあった映画館である。「世や直れ:音楽で島興し第1集:宮古島市誕生記念」(小禄恵良編著)によれば、1956年10月30日に開館。収容人数600人。代表者の平良重信は、料亭や新聞社の経営を手掛ける実業家だ。当初は現在の琉球銀行宮古支店の敷地で営まれていた。なお「平良市史第二巻 通史編II戦後編」には同敷地に「中央劇場」があったと記されており、「宮古国映館」の前身だった可能性がある。

 当時の劇場外観を撮った写真を見ると、新東宝の『日本敗れず』(54年)や『新妻鏡』(56年)などの看板が掲げられている。映画以外に「平良市の歌」発表会が開催されたり、大ヒット曲「川は流れる」で知られる人気歌手・仲宗根美樹の公演が行われたりした。

1957年正月、移転前の宮古国映館(提供)

 86年には一区画離れた3階建ての建物に移転改築。2階250席、3階101席の2スクリーンを持つ複合館となった。しかし、テレビやビデオの普及により客足が徐々に減り、2002年2月に閉館。「琉球新報」の同年2月22日号掲載記事「宮古から銀幕消える」では、前述の平良重信が「宮古から若者が減ったことも影響した」と述べて肩を落としている。他の劇場はすでに閉館しており、宮古島から映画館が全て消えることになった。

 しかし、物語はここで終わらなかった。3年後の05年8月6日。閉館した「宮古国映館」の2階部分を改装して「シネマパニック宮古島」が開館する。館長は島に映画の火を再びともそうと立ち上がった下地昌伸。周囲の協力の下、劇場運営に奔走した。後に、高額なデジタルプロジェクターの導入のため吉本興業に劇場命名権を販売。14年8月に「よしもと南の島パニパニシネマ」として再出発する。

 無事デジタル化を果たした「パニパニシネマ」だったが、コロナ禍で深刻な打撃を被った。さらに追い打ちをかけるように20年5月に下地館長がガンにより逝去。休館した劇場の危機を救ったのは妻の史子さん。夫の遺志を受け継いで、同年10月、館長に就任した。それから4年。現在も宮古島唯一の映画館、そして日本最南端の映画館として上映を続けている。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)