written by 島 洋子
菅義偉官房長官が首相に決まったタイミングで、私は話を聞きたい人がいた。宮城篤実前嘉手納町長である。宮城氏は米軍嘉手納基地を抱える嘉手納町長を5期20年務めた、県内保守の論客の筆頭だ。共に官房長官を務めた故梶山静六氏と菅義偉氏の違いについて知りたかった。
梶山氏は、1996年4月に米軍普天間飛行場を県内移設の条件付きで全面返還する日米合意を取り付けた橋本龍太郎氏を支え、沖縄問題を担う官房長官だった。茨城選出で沖縄とは縁のなかった梶山氏が沖縄に深く関わるのはそのころからである。
外交官だった岡本行夫氏(後に首相補佐官)の仲介により官邸で「数分だけ」と言われ面談した宮城町長(当時)は、米軍基地に町の82%を接収され、宅地も墓地もなく、若者が町を出て行ってしまう現状を訴えた。梶山氏は質問を繰り返し、時間は予定を大幅に超過した。
その後、梶山氏は官房長官の私的諮問機関である「島田懇談会」を設置し、米軍基地所在市町村に予算を配分して民政安定に努めた。「民政安定」とは基地負担を軽減するのではなく、負担の分を金や情で補おうという、別の言い方をすれば「懐柔」である。
後日、梶山氏は、普天間飛行場の移設先が沖縄以外だと「必ず本土の反対勢力が組織的に住民投票運動を起こす」と本土側の反発を恐れ、名護市辺野古を移設先とする理由を書簡に記していた。結果的には沖縄へ負担を押しつけることに変わりはなかった。しかし、宮城氏は「基地の負担に苦しむ私たちの声をよく聞いてくれた。嘉手納町の恩人だ」と評する。
その梶山氏を「政治の師」と仰ぐのが菅新首相だ。菅氏は1998年の総裁選で所属していた小渕派(現竹下派)の方針に反し、梶山氏の擁立に加担。派閥を離脱したほどである。
「丁寧に説明」の約束は…
2015年3月末、私は菅義偉官房長官に単独インタビューをした。「メディア選別」が徹底していた菅氏が沖縄の新聞社の単独インタビューに答えたのはこの時しかない。背景には翁長雄志県知事誕生があった。
14年11月の県知事選で現職の仲井真弘多氏を破り当選した翁長氏は「辺野古には基地を造らせない」と公約していた。安倍政権は翁長氏の面会希望を約5カ月、無視し、翁長知事が上京しても一切会わなかった。この態度に沖縄の新聞だけでなく、在京紙からも批判記事が出始めた。慎重な菅氏は翁長知事との面談のタイミングを見極め、その前に県紙に答える形で自身の沖縄政策を訴えたかったのだろう。
インタビューがかなった私は、菅氏と関わりの深い梶山氏と比較した長い質問をぶつけた。「菅長官は翁長知事とも、基地を押しつけられる名護市の市長(当時は稲嶺進市長)とも面談していない。かつて自民党の政治家は野中広務官房長官、橋本龍太郎首相、小渕恵三首相も『沖縄の頭越しにはしない』と沖縄と対話してきた。長官が師と仰ぐ梶山静六さんは論文『日米安保と沖縄』で『特定の地域、特定の県民だけが、国益のために負担を過度に負うことは民主主義の原理に違反し、やがてはその根本をも覆すことにもなりかねない』と書き『沖縄県民の理解と協力を欠いた日米安保体制はあり得ない』と指摘した。比べて安倍政権は対話をつくらないという点で極めて乱暴に見える」。
沖縄県民の代表である県知事との対話すらしない政権の意図を聞きたかった。菅氏は少しむきになったような口調でこう言った。「それはまったく当たらない。総理には『沖縄のためにやれることは全てやるように』と指示を受けている。先輩の皆さんは大変な努力をされた。しかし私どもは負担軽減を目に見える形で進め、住民にも丁寧に説明することで理解を得ていきたい」
しかし、その後の基地問題への対応は「丁寧に説明」とはほど遠く、県民がいかに反対の声を上げようと「粛々と」進めていった。
翁長前知事「別々に生きてきた」
宮城前町長は梶山氏と菅氏の違いを「戦争体験者か否かだ」と表現した。沖縄戦で4人に1人が犠牲となり、その後の米統治下での苦しい歴史を同世代人として体感していたであろう梶山氏。宮城氏は梶山氏の「沖縄に対する温かい、信頼を得ようとする姿勢」をたたえた後、菅氏について「沖縄の苦しみを知ろうとする姿勢はないんじゃないかな」と述べ、「沖縄政策に関しては期待していない」と突き放した。
菅官房長官は私のインタビューが掲載されて4日後、翁長知事と初めて会談した。菅氏は「政府としては辺野古埋め立て工事を粛々と進める」と述べた。翁長知事は「『粛々と』という、上から目線の言葉を使えば使うほど沖縄県民の意は離れ、怒りは増幅していく」と述べ、菅氏に「米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と言った最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる」とも述べ、米国統治下の圧政で悪名をはせたキャラウェイ氏を引き合いに出した。
菅氏と翁長知事は法政大学の同窓である。15年9月、辺野古新基地建設の是非を巡る県と政府の集中協議が決裂した際、それまで沖縄の歴史や基地被害について思いのたけを話した翁長氏が「私の話は通じませんか」と問うと、菅氏は「戦後生まれなので、沖縄の歴史はなかなか分からない。日米合意の『辺野古が唯一』というのが私の全てです」と語った、という。翁長知事は「お互い70年間も別々に生きてきたような感じがしますね」と返した。
沖縄の歴史や沖縄戦に関する多くの本を読み込んだ梶山氏や橋本氏とは対照的である。「地方重視」を強調しながら、日米合意を絶対視して国策の名の下に政策を進める手法だ。県民投票で辺野古の海の埋め立てに7割超が反対した沖縄の民意はくまず、「辺野古が唯一」と冷徹に繰り返してきた。埋め立て承認取り消しなどを巡る国と県の訴訟に関しては、菅氏は「法治国家」を繰り返して政府姿勢の正当性を強調してきた。玉城デニー知事就任後も、沖縄側が求める対話は続いていない。
結果さえ出せば…
一方で、菅氏は北部訓練場の部分返還を強力に進めた。16年12月の返還式典には自ら沖縄へ赴き、ケネディ駐日米大使と共に参加して内外に負担軽減の取り組みをPRした。この部分返還によって、在日米軍基地のうち沖縄にある基地は73・7%から70・4%に減った。しかし返還の条件となったヘリコプター発着場(ヘリパッド)の新設によって、集落には新たな騒音被害が発生している。
歴代の政権は沖縄に基地負担を押しつけてきた。ただし、沖縄の声を聞こうという姿勢は持ち合わせていた。政治は妥協の産物と言うが、利害の異なる問題を双方におおむね納得させて決めるものであるなら、民主主義の下ではプロセスを尽くすことが求められる。梶山氏ら戦争を体験したかつての自民党の政治家は、プロセスを尽くす意志があった。しかし菅氏には「結論ありき」という意思しか感じられない。
私のインタビューで梶山氏を引き合いに出され、「先輩の皆さんは大変な努力をされた。しかし私どもは負担軽減を目に見える形で進める」とむきになった発言の裏には、「先輩たちは、努力しても普天間の移設という結果を得られなかったではないか」という本音が隠れていたのではないか。
結果さえ出せば、の姿勢で辺野古新基地建設を進める菅政権であるが、早晩、壁にぶつかる。埋め立て予定地の大浦湾に広がる軟弱地盤の問題である。マヨネーズ状と称される水深70メートル以上の海底を埋め立てるのは前例のない難工事となる。砂杭(くい)約7万1千本を海底に打ち込み、12年工期で総工費は9300億円になると発表しているが、コストは青天井になるとの専門家の意見もある。
合理性に欠く計画に膨大な工費を「粛々と」注ぎ込みながら、菅新政権は辺野古新基地の完成という結果を出せるのであろうか。対話を失った政権と沖縄は、かつてないほど亀裂を広げてしまうだろう。
島洋子(しま・ようこ) 1967年生まれ、沖縄市出身。東京報道部長、政治部長、経済部長を経て編集局次長兼報道本部長。「ひずみの構造―基地と沖縄経済」で2011年平和協同ジャーナリスト基金奨励賞。楽しみは子育てでしたが、そろそろ卒業。最近はなかなか行けない分、ゴルフ中継を熱心に見るように。
沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。