2人の子を亡くしても…どん底から涙ぬぐい「人のために」 介護施設代表・渡慶次さん


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 2人の子どもを交通事故と病で失いながらも、懸命に前を向き、介護施設の運営や交通指導員、琉球舞踊に打ち込む女性がいる。デイサービスセンター「琉球苑」など、県内で九つの介護施設を運営する「トータルケア結」の代表を務める渡慶次葉末子(はずえ)さん(73)=那覇市=だ。悲しみを胸に、今では誰かの役に立ちたいと強く思うようになっている。

笑顔を見せる渡慶次葉末子さん=4月27日、那覇市宇栄原のデイサービスセンター琉球苑

 「おはようございます」「いってらっしゃい」。那覇市宇栄原のさつきこども園の前では、渡慶次さんのはつらつとした声が響く。児童の登校を見送ると、こども園に隣接する琉球苑で、にこやかに入所者に声を掛け様子を見守る。入所者の散髪も渡慶次さんの大切な仕事だ。「お年寄りに楽しんでもらいたい」と軽い気持ちで始めた琉舞は、17年も続いている。「ただ自分にできることを、やっているだけよ」と笑顔で言い切る。

 渡慶次さんは伊江島出身。幼い頃に那覇に移り住み、高校中退後、20歳でスナックの経営を始めた。24歳で結婚し、2男1女に恵まれた。だが、37歳で離婚。女手一つで子どもを育てるため、昼は刺し身屋、夜は2軒のスナックを掛け持ちするなど、昼夜を問わず働いた。

 そんな中、渡慶次さんを悲劇が襲う。1989年、給油所で働いていた長男・幸洋さんが職場に向かう途中の事故で、19歳の若さで亡くなった。幸洋さんを亡くした事実を受け入れられず、酒に溺れ、家にひきこもりがちになった。

 失意のどん底にいた渡慶次さんを支えたのは、周囲の励ましだった。

 徐々に外に出るようになり、渡慶次さんの心境にも変化が訪れる。「『(幸洋さんは)どこかで元気に生きている。今は会えないだけ』と思うようにした」。気持ちを奮い立たせて仕事と子育てにまい進し、介護ヘルパーの仕事も始めた。

 だが、その12年後、さらなる悲劇に見舞われた。大学に入学したばかりだった長女・なぎささん(享年19歳)を糖尿病で失った。自暴自棄になり、後を追うことを考えたこともあった。「当時のことはとにかく『忘れよう忘れよう』と言い聞かせてきた。もう細かいことは覚えていないさ」。言葉少なに語る。

 介護ヘルパーの仕事に就いて5年目になった2003年、元同僚からデイサービス事業への出資を誘われた。「自分にできることをやろう」。そう決意し、亡き子どもの学費にとためていた600万円を元手に、2004年に琉球苑を開所した。今では多くのお年寄りが笑顔で毎日を過ごす場所になった。

 「もう後ろは振り返りたくない。ただ突き進むしかない」。そう言い切る渡慶次さん。「これからは、もっと人の力になるよう頑張りたい」と今日も前を向き、周囲を明るく元気づけている。

(嶋岡すみれ)

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