「私一人でいただいたものではなく、師匠の真境名佳子と共にいただいたものだと思っている」
佳子さんの写真と共に取材に応じた宮城幸子さんは、自らへの人間国宝答申の報に、何度も胸の前で手を合わせ、師を仰ぎ見た。
芸能が盛んな羽地村(現名護市)親川に生まれ、地域を訪ねてきた乙姫劇団など那覇の劇団や、真境名由康氏ら大きい先生方の舞台を見たことが芸の道に進むきっかけになった。
那覇で佳子さんの踊る古典女踊「かせかけ」を見て、俗世と一線を画す清廉な所作に魅了された。「踊りだけではなく、人間性にも『すごい』と思った」
佳子さんは「琉球舞踊は理屈じゃない、体で体得しなさい」と弟子たちに諭したという。「柱の前に立たされて、まずは姿勢作り。頭のてっぺんから、背筋を真っすぐにし、『シチャワタンカイ(おへその下に) ネーチリイリレー(着物のあげを入れなさい)。踊りの姿勢はこれだよ』と、そこからひたすら歩みの練習が始まる」。厳しい鍛錬の積み重ねが、一本芯の通った幸子さんの凜(りん)とした踊りを作り上げていった。
現在、道場とは別に、県立芸大や国立劇場おきなわの組踊研修で、若い実演家にも琉舞を指導する。しまくとぅばになじみのない世代だが、琉舞ならではの身体表現や師匠の思いが伝わるよう「ネーチリ イリレー」と師と同じ言葉で教えることを心掛けている。
芸道70年、先達の残した琉舞の心と技に真摯に向き合ってきた。「(人間国宝に認定されることに)責任を感じている。次代にどのように芸を伝えていくか、あらためて考えたい」と表情を引き締めた。
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