空手王者・喜友名にとっての「レジェンド」佐久本嗣男氏との絆


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劉衛流の佐久本嗣男会長(左)の指揮の下、形を通す喜友名諒=2020年1月7日、那覇市の守礼堂

 喜友名諒の前人未到の9連覇が懸かった2020年12月の全日本選手権。試合の合間に喜友名はたびたび、コート正面の上階に座る師匠の佐久本嗣男氏に視線を送っていた。まな弟子の偉業達成の瞬間、佐久本氏は喜友名に人さし指を立てるような合図を送ってその場を立ち去った。深い絆をうかがわせる瞬間だった。

 1970年代、当時20代の佐久本氏は屋我地小中学校の校長だった劉衛流宗家四代の仲井間憲孝氏に師事した。34歳で大会への出場を始めると、2年に1度の世界選手権で85年から89年まで3連覇を成し遂げた。ワールドゲームズ、ワールドカップを含め、世界の頂点に7度立っている。

 

第6回県空手選手権大会での佐久本嗣男さん=1987年5月、浦添高校体育館

 喜友名にとって“レジェンド”としての佐久本氏をより強く感じたのは2004年。沖縄東中2年で全国中学生選手権で優勝する。その祝賀会で佐久本氏の門下生が世界を制する映像が流れた。「あんなふうにもっと上に行きたい」。初めて世界を意識し、憧れを深めた。

 その翌年、中学3年の喜友名は佐久本氏の道場の門をたたいた。「稽古は命がけだ」。いちげんをいなすように突きつけた入門の条件は365日、休まず練習すること。既に毎日の稽古を自らに課していた喜友名は即答した。「できます」。国際大会での勝利を重ねていくことになる師弟の出会いだった。

 佐久本氏は喜友名ら弟子たちを息子のようにかわいがる。いとおしむのと対を成すように稽古は厳しい。喜友名を特別扱いはしない。形に納得できない時は「やる気がないなら帰れ。まとめようとするな」と容赦ない。

 佐久本氏は空手の熟練の度合いを「鍛錬」に始まり「術」を経て「芸」に至ると区分する。喜友名については「『術』の域の5段階の2つくらいまでは来ている」と誇らしげに話す。その先に佐久本氏の存在を置いて喜友名の鍛錬は続く。「先生のようになれるよう稽古し続けたい」。

 今年は師を上回る世界選手権4連覇が懸かる。佐久本氏は「何が何でも取らせてあげたい」と情熱を注ぎ込む。師の領域へ、かたや弟子の大成を目指す2人の挑戦は五輪で終わらない。

(古川峻)

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