「日本政府の諜報員だった」 琉球政府から出先機関に出向の宮田氏「一体化のため」


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沖縄・北方対策庁沖縄事務局での勤務経験を語る宮田裕氏=7月、那覇市

 沖縄総合事務局職員として長年沖縄振興の実務に携わり、退官後は研究に励む沖大・沖国大特別研究員の宮田裕氏が9日までに本紙の取材に応じ、日本復帰前の沖縄にあった日本政府の出先機関「沖縄・北方対策庁沖縄事務局」で勤務した経験を語った。宮田氏は琉球政府の経済情報の収集が主な業務だったとして、自らを日本政府の「諜報員」だったと説明する。「当時、外資導入の議論では沖縄の権益と国益のぶつかり合いがあった。僕は(沖縄)返還に備えて沖縄の情報は逐一、収集して霞ヶ関(東京)に送った。当時から違和感はあったが、外資導入が全部つぶされるとの結果は誰も想定できなかった」と語った。

 1960年代、琉球政府は米軍基地に依存する経済構造から脱却を図ろうと、外資系企業の開放政策を打ち出していた。一方、日本政府は本土では規制がかかる一部外資の沖縄進出は、復帰後の本土展開を見据えた「駆け込み進出」だと見て、国内企業保護のため規制を強めた。その結果、石油やアルミ、半導体の世界的企業の沖縄進出が阻まれた経緯がある。

 宮田氏はもともと琉球政府職員だったが、返還事務加速のため、70年5月に発足した沖縄事務局に出向した。当時の業務は「返還後に問題になる話題が新聞に出ていたら、琉球政府に赴いて日常的な会話の中から情報収集して、資料があれば全部入手する。日本政府の立場から網羅的に情報を吸いあげて全部東京サイドに流れる仕組みだった」と語った。

 宮田氏は当時、日本政府の外資政策に内心は違和感を抱きつつ、「本土と沖縄の一体化」のため業務にまい進したという。もともとは沖縄の権益を優先的に考える琉球政府職員だったが、「沖縄における日本政府の出先機関の職員として、視点は日本政府で見る必要があった」と述べた。「僕が集めた情報が最終的にどのような形で結論に至ったかは、違和感があっても知るすべがない」と語った。

 復帰後は沖縄総合事務局職員として、定年まで勤務した。日本政府が復帰前の外資進出を阻んだため、沖縄経済が飛躍的発展を遂げなかったとの思いがある。

 宮田氏は1950年に始まった朝鮮戦争で沖縄の米軍基地が強化されていった際、本土の大手ゼネコンが沖縄に相次いで進出して多大な利益を上げたと指摘。「戦後の本土経済は沖縄を踏み台にして発展した。そういったことも踏まえて、本来は沖縄の苦労の歴史に基づいて、自立経済への道を開くのが国家の責任だったのではないか」と語る。復帰から50年がたつ今もその疑問は拭えない。
 (梅田正覚)

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