上与那原50歳、自己新の銅「できるところまで頑張りたい」鉄人、歩み止めず


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 午後9時前、千台以上のライトに明々と照らされた国立競技場。1500メートルのファイナリスト7人がスタート位置に付いた。上与那原寛和は5レーン。ヘルメットシールドの下からのぞく口元は引き締まり、高い集中力がうかがえる。号砲と同時にハンドリム(車輪の持ち手)をたたき、一気に加速する。二つ目のメダルを懸けたレースが幕を開けた。

男子1500メートル(車いすT52) 力走する上与那原寛和=国立競技場

 前に出たのは400メートルを制した優勝候補の佐藤友祈(モリサワ)とリオ大会王者のレイモンド・マーティン(米国)。「想定より遅いスタートだったから、初めから全力でいった」という上与那原は3番手に付け、3人で先頭集団を形成した。一周目の400メートルを過ぎると、徐々に2人から後れを取り始める。理由は「これ以上付いていっても追えないと感じたから」。体力面を考慮し「少し減速して速度を維持して走った。焦りはなかった」と至って冷静だった。

 中盤以降は後続の追い上げも度々確認しながら速度をコントロールし、4位に約10秒の大差を付けてゴールした。5年前のリオ大会1500メートルでは3位と0・08秒差の4位で涙をのんだ。悔しい経験を糧に「最初のイメージと違う展開でも素早く切り替え、行くと決めたら行く」と冷静さと決断力を養い、ベテランらしい試合巧者ぶりでメダルを手にした。

 400メートルと同じく、メダル候補だった盟友の伊藤智也(バイエル薬品)はクラス変更により不在だった。この日の午前に障害が一つ軽いクラスの400メートルに出場した伊藤が苦難に負けず、自己ベストを更新する姿を見て奮い立った。1500メートルのレース中、スタンドのスタッフが伊藤に電話で中継していることを聞かされており、ゴール後は「(メダル獲得を)報告したかった」とスタンドへ右手でガッツポーズ。「伊藤さんの分まで背負って戦った」と声を詰まらせた。

 50歳で迎えた4度目のパラリンピックで13年ぶりにメダルを獲得し、県勢としてトラック種目初、さらに同一大会で初めての複数メダル獲得という新たな歴史を切り開いた。1500メートルで自己新を5秒以上更新したが「3分30秒台を想定していた。若干遅い」と向上心は衰えを知らない。3年後にはパリ大会が控える。「まだ若い選手にも負けてない。できるところまで頑張りたい」と心強い。沖縄が誇る鉄人レーサーの歩みは、まだまだ終わりそうにない。
 (長嶺真輝)

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 うえよなばる・ひろかず 1971年5月22日生まれ。沖縄市出身。28歳の時に交通事故で頸椎(けいつい)を損傷し、首から下にまひを抱えた。31歳で車いす陸上を開始。パラリンピック初出場だった2008年の北京大会フルマラソンで銀を獲得し、県民栄誉賞を受賞。自身のクラスでマラソンがなくなり、ロンドン、リオでは短・中距離のトラック種目で入賞を重ねた。4大会連続出場の東京では400メートルで銅を獲得し、県勢初のトラック種目でのメダルとなった。クラスはT52。Tはトラック競技などを意味する。数字の2桁目は障害の種類と競技形式を表し、5はせき髄損傷によるまひや切断による車いす使用、投てきの座位など。1桁目は障害の度合いを表し、数字が小さいほど重い。

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