首里城の謎今回も解けず…「正殿の畳」敷き方分からず、再現見送りへ


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琉球王朝時代に行われた首里城正殿の修理を記録した尚家文書のコピー。「一 備後細目表筵百五拾枚」「一 同荒目表筵三百五拾枚」「一 割為表筵百枚」との記載がある

 琉球王朝時代の首里城正殿には畳が敷かれていたことが資料などで明らかになっているが、どのように敷かれていたかが分かっていない。1992年の復元時も検討されたが、謎が解けずに議論が持ち越されていた。今回も板間で復元されることが濃厚で、「正殿の畳」は幻となりそうだ。

 正殿に畳が敷かれていたという記録は、琉球王家の尚家に残っていた古文書「尚家文書」の一部「百浦添御普請(ももうらそえごふしん)日記」に記されている。文書は1842~46年に正殿を大規模修理した際の記録で、修理に使う材料の発注書などをとりまとめたものだ。

 文書によると、王府の役人は「備後(びんご)細目表筵(むしろ)百五拾枚」「同荒目表筵三百五拾枚」「割為表筵百枚」を、久米島の在番(駐在)に発注した。備後表は備後地方(広島県)で生産していた畳表のことだが、当時は生産地を問わず畳表一般を指して使われていたとみられる。「細目」の畳150枚、「荒目」の畳350枚、質の落ちる「割為」100枚の計600枚が正殿に使われていたことになる。

 畳表とは別に、畳のへりに使う紺色の「中布」も宮古島に発注していた。

 古文書に畳の材料を発注した記録はあるものの、正殿の中に畳をどのように配置したかは記録がない。今回の復元の設計を担う、国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」の委員、田名真之さん(県立博物館・美術館館長)は「畳を敷くのは当たり前すぎて、当時は記載しなかったのかもしれない」と分析する。

 畳は常時敷かれていたのか、行事の際に出したり、しまったりしていたのか、しまうとすると、どこにしまったのかなど、分からないことは多い。復元する首里城は観光施設の役割もあるため、防災や畳の劣化速度なども考慮し、今回も「正殿の畳」は見送りの公算が大きい。

 技術検討委員会の高良倉吉委員長は「今回はペンディングしようということになっている。思いも寄らない分析方法で敷き方が分かれば、その時に敷けばよい」と話した。

 ただ、南殿は畳となる可能性を残している。田名さんは「南殿は役人を激励したり行事を行ったりと『宴会場』の性格もあった。前回は展示施設としての役割を担うため板間で復元されたが、今回はその他の施設もあるので、役割を分散すれば南殿の畳を見られるかもしれない」と期待を込めた。 (稲福政俊)


 

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