全国3冠2度、興南ハンド部名将の軌跡を追う…始まりは教育実習「指導者もいいな」<興す沖縄ハンド・名将 黒島宣昭の歩み>1


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興南高校男子ハンドボール部を監督として39年間率いた黒島宣昭さん=2021年11月、那覇市の同校(喜瀬守昭撮影)

 昨夏の全国高校総体を最後に、興南高男子ハンドボール部を39年間率いてきた黒島宣昭さん(61)が監督を退いた。今後も総監督として関わるが、指導の中心は後継の照屋喜隆さん(42)が担う。人一番の情熱と研究心で2度の全国3冠に導くなど屈指の強豪に押し上げた名将が、自身のハンドボール人生を振り返った。

 《神森小時代は野球少年だったが、三つ上の兄、光世さんが神森中でハンドボールを始めた。自身も1973年に同校に進むと同時にハンド部に入部した》

 県高体連に専門部が設置され、県協会が創設されたのが65年だったから、当時はまだ県内に競技が広く普及していない時代。兄貴が3年の時に中学の第1回県大会が開かれた。「おもしろい競技があるよ」と言われて初めて見たら、走る、飛ぶ、投げるというスポーツの醍醐味(だいごみ)が詰まっていた。実際にやってみると、シュートを決めた瞬間とかが楽しくてね。まだハンドを専門に教える先生は少なくて、中学の監督も陸上が専門だった。だから自分たちで高校生の試合を見たり、OBに来てもらったりして、見よう見まねで練習していた。なかなか県大会で優勝できなかったけど、おもしろいから興南でも続けた。

 興南は当時から県内で強くて、東長濱秀吉さん(元琉球コラソン監督)がいた一つ上の代は県総体で優勝して、自分もフローターとして山口インターハイに出た。自分の代の県総体はベスト4。優勝したのは浦添高で、中学の同級生だった東江正作や大学でチームメートになる喜舎場淳一がいた。その年の長野国体に出た少年男子は浦添高メンバーが主体だったけど、浦添高監督で少年男子を率いた新垣健先生に選んでもらえた。

 高校は全国に2回出たけど、いずれも8強か16強くらいまで。高さと体の幅で劣っていた。それ以上に一番感じたのは、沖縄が戦術面で相当遅れていたということ。体力とかボールスピード、身体能力では引けを取らないけど、フォーメーションやコンビプレーでまだまだ差があった。

ルーマニアに遠征した日体大時代の黒島宣昭さん(後列左から2人目)や喜舎場淳一さん(前列左)ら=ルーマニア(提供)

 《大学は新垣監督の紹介で、喜舎場さんと共に日体大へ。後に日本代表としてロス、ソウル五輪に出場する高村誠一ら有望選手がいる強豪大で腕を磨いた》

 大学はいい選手がそろっていて、いろいろな戦術をしていた。一緒にやってみて、全国トップ選手の体格の良さもより実感した。3年からは喜舎場と両サイドで主力としてプレーできた。ただ自分の代は全日本学生選手権で8強止まり。チームの「和」がなくて、油断もあったかな。

 83年の卒業を前に新垣先生から「87年に海邦国体があるから、成年の主力としてやってほしい」と言われてね。全都道府県で最後の国体開催地ということもあって、沖縄に帰って国体を目指そうとなった。実業団からも誘いがあったけど、自分は173センチで体格も小さかったから正直、そこまで自信もなかった。

 元々指導者になりたいという思いがあったわけじゃないけど、教育実習で興南のハンド部を見に来た時に「指導者もいいな」と思えた。22歳で沖縄に帰る前には「もう教員しかない」と思って。母校で教員になった後は2カ月くらい高校近くの健康増進センターでトレーナーをしていたけど、当時は興南に監督が不在で、現役生がセンターに来て直接「教えてほしい」と言われて監督に就いた。

(文責・長嶺真輝)


<黒島宣昭さん略歴>

 くろしま・のぶあき 1961年1月14日生まれ。浦添市出身。興南高ハンドボール部総監督、興南高校・中学副校長。神森中、興南高、日体大で選手として活躍し、83年から2021年まで39年にわたり興南高の監督を務めた。2005年と14年には春の選抜大会、夏の高校総体、国民体育大会で優勝して全国3冠を達成し、沖縄ハンドボールの強さを全国に知らしめた。


【連載 興す沖縄ハンド・名将 黒島宣昭の歩み】

▼(2)選手として海邦国体総合優勝に貢献 興南では生活改善から指導 人間育成の大切さ教わる

▼(3)準決勝で解禁した「秘密兵器」の守備 初の全国制覇にベンチで涙

▼(4)興南の「黄金世代」が全国3冠を達成するまで 敗北が糧に 絆で乗り越え