無数の傷は歴史の跡―。1954年に沖縄市で創業し、56年に那覇市辻に移転した「ジョージレストラン」は、創業時に仕入れたジュラルミン製のステーキ皿を今も使用している。終戦直後、物資不足に陥った県民は、廃棄された米軍戦闘機の残骸を加工し、釜ややかんなど多くのジュラルミン製品を生み出していた。ステーキ皿もその一つ。戦後のアメリカ世を物語る、沖縄ならではのビンテージ品だ。
両親から店を継いだ2代目の宮城健さん(64)は那覇移転翌年の57年生まれ。「助産師さんに取り上げられたから、まさにここ(店)が生まれた場所。周りからは『生まれた場所から動かないね』って言われるさ」と笑う。
移転当時、辻は那覇軍港の米兵が集うバーの街だった。店は辻のAサインレストラン1号店。米兵らはレストランで腹ごしらえし、バーで酒を飲んだ。「当時の人気メニューは50セントのフライライス(チャーハン)やサンドイッチなどのショート・オーダー(軽食)で、1ドルもするステーキはあまり出なかったらしい。米兵もお金がなかったんでしょうね。食事は安く済ませ、飲み代を確保していたんだと思う」
ベトナム戦争時の60年代後半まで、辻は米兵が集まる街だった。しかし、次第にその姿は減り、復帰の頃には地元客中心に変わっていた。中学生で復帰を迎えた宮城さんは「復帰は何となく怖かった。どうなるか分からないから、不安があったんだろう」と当時の心境を振り返る。
宮城さんが27歳で店を継いだのは84年。当時は24時間営業で、客が最も入るのは早朝5~6時頃だった。夜通し酒を飲んで訪れた客がトラブルを起こすことも。店は創業以来の苦境で、立て直しに必死だった。店内にあったゲーム機を撤去するなど、家庭的なレストランを目指した。
出前を始めるなど業態を工夫し、店も改修したが、いすやテーブルなどは創業時のものを残した。ジュラルミン製のステーキ皿も、店のアイデンティティーとして大切にしている。皿の裏にある「Z」のような刻印から製造元を調べようと思っているが、まだ見つかっていない。
ジュラルミンは冷めやすく、ステーキ皿としては鉄板に劣る。それでも、宮城さんは創業当時のジュラルミン製にこだわる。「店を継ぐときにフレンチやイタリアンの店にしてもよかったけれど、それだと店の歴史が生かせない。この場所でこの店を受け継ぐのなら、この皿でないと」
(稲福政俊)