>>まるで暗号「オナカ」「セナカ」が選挙戦<世替わりモノ語り>から続き
1960年、25歳で社大党から立法院議員選に立候補した仲本安一(あいち)さん(86)=糸満市=のポスター表記は、カタカナと漢数字を組み合わせた「ア一」。大物議員を相手にした初挑戦は落選に終わるが、65年の那覇市議選で当選を飾る。
仲本さんによると、義父に当たる平良良松(りょうしょう)元那覇市長は、初当選した68年市長選で名前を簡略化して「ロソ」と表記した。「同じ平良姓の候補が現れたため『タイラ』ではだめで、ポスターを貼り替え名前をより短くした」と振り返る。
仲本さんは復帰後に県議となり、国政選挙にも出馬した。自身のポスターは全て保管してある。中には姓名を漢字表記にした選挙もあったが、その際には支持者に「強がって負けたら損するぞ」と言われたという。
元那覇市職員で、市議も務めた玉城仁章さん(82)=同市=は、復帰前後の選挙に出馬した候補者ポスターを複数保管している。ニシメ、コクバ、セナガ、アサト―。激動の政治を担った大物政治家も、ポスターにカタカナを使った。
玉城さんは65年、西銘順治那覇市長時代の市役所に就職した。選挙では革新系の「那覇市職員労働組合」と、保守系の西銘市政を支える「那覇市役所労働組合」が激しい運動を繰り広げた。「今のように決まった掲示板もなく街頭に貼っていたので、ポスターに貼る証紙もあってないようなものだった」(玉城さん)
カタカナ表記が有権者をまごつかせるとして、復帰前の新聞はたびたび批判的に取り上げた。69年7月5日付「琉球新報」1面コラム「金口木舌」は、那覇市議選ポスターについて「有権者をバカにしたような選挙運動」だと苦言を呈している。
だが、日本の公職選挙法が適用された復帰後も、カタカナポスターの習慣は続く。次第に否定的に捉える評価も薄れ、今では沖縄独特の選挙風景として溶け込んでいる。
(當山幸都)