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コールサインは「K」復帰後「J」へ 自作アマチュア無線で本土と交信 鉄くずかき集め<世替わりモノ語り>9


この記事を書いた人 Avatar photo 當山 幸都
東伸三さんと高良剋夫さんの無線従事者免許証。復帰に伴い、コールサインは東さんがKR8AFからJR6AFに、高良さんはKR8AGからJR6AGに変わった

 個人が楽しむ趣味の中にあってアマチュア無線は特殊だ。国の資格が必要で、免許を取得するとコールサイン(呼出符号)が与えられ、交信できるようになる。1952年の日本の主権回復後も米統治下に置かれた沖縄では、しばらくアマ無線が認められず、許可された後も米国のコールサインが使われた。

 琉球政府が55年に公布した電波法には、日本本土と異なりアマ無線の項目がなかった。ただ、こっそり交信を楽しむ人がいて「アンカバー」(不法無線局)と呼ばれる“もぐり無線家”が増えていた。

 56年、アマ無線を認めてもらおうと高校生らが活動を始める。その中心に、那覇高校物理クラブの同級生だった元エフエム沖縄副社長の東伸三さん(86)=八重瀬町=と、RBCiラジオで懐メロ番組のDJを務めた仲地昌京さん(2022年3月死去)がいた。2人は極東放送に就職しラジオの道を歩む。

 東さんらは琉球政府工務交通局のほか、嘉手納町水釜にあった米軍関係者の「オキナワアマチュアレディオクラブ」(OARC)にも直談判した。「つたない英語で『僕らにもアマチュア無線をやらせてくれ』とお願いした」(東さん)。そうした働き掛けが奏功してか、米国民政府は58年、アマ無線を認める方針に転じる。60年の電波法の一部改正で、沖縄でも資格試験に合格すれば堂々と交信ができるようになった。

 米国製の無線機は高価で手が届かず、スクラップ置き場の鉄くずや払い下げの部品をかき集め自作した。「掘り出し物があると本当にうれしくてね」と振り返る東さんは、61年に作った送信機を今も大切に保管している。組み立ては英字雑誌で学んだ。書店や古紙回収の店に通い、米軍基地内から流れてきた科学誌を見つけては心を躍らせ、むさぼるように読んだという。

復帰前からアマチュア無線を続ける東伸三さん(右)と高良剋夫さん。手前は東さんが1961年に自作した無線機=2月、八重瀬町内

 資格を取得したアマ無線家には「KR8」で始まる5字のコールサインが与えられた。「K」は米国やその統治地域を意味し、アマ無線の世界で沖縄は日本とは別の一つの「カントリー」として分類された。本土のアマ無線家はこぞって沖縄との交信を求めてきた。「KR8」のコールサインは珍しがられ、東さんと共に60年の第1回試験に合格した浦添市の高良剋夫さん(77)は「沖縄の人は引っ張りだこだった」と懐かしむ。

 それから10年余。日本復帰に伴い電波行政も本土並みとなり、頭文字の「KR8」は「JR6」(Jは日本)に変更されることが決まる。

 72年5月14日夜、高良さんは日付が変わる瞬間まで、自宅で交信を続けた。何万回と口にしてきた、自分のコールサインとの別れ。「一つのカントリーから日本の一部となることに寂しさもあった」(高良さん)

 復帰前に「KR8」で始まる5字のコールサインを与えられたアマ無線家は約300人いた。半世紀がたち鬼籍に入った人も多く、日本アマチュア無線連盟県支部によると、現会員で残っているのは20人ほどになっている。

(當山幸都)