ちむどんどん第43話では、おでん屋の立て直しがうまく行かないことに焦る暢子(黒島結菜)が、房子(原田美枝子)に「ただのいじわるにしか思えない」とわじり(怒り)ます。見かねた県人会長の三郎(片岡鶴太郎)が「あの人(房子)は屋台から身を興したんだよ」と教えてあげました。
現在では沖縄でも、現代の屋台とも言えるフードカーをたくさん見かけますが、屋台は戦後広まった文化のようです。1950年8月13日からうるま新報(現在の琉球新報)で始まった3回の連載「ナハ夜景 屋台繁盛記」(嘉手川重喜)は、「戦争の生んだものに疎開があるがその疎開者のおみやげがヤミ市場と屋台店である」と記しています。この連載によると、屋台の多い場所は那覇劇場前の通り(那覇市壺屋付近)や安里三叉路で、那覇劇場前の通りには30件ほどの屋台があったようです。売り物はすしやそば、天ぷらなどさまざまで、男性よりも女性がやっている店が多く、内容は「味とか特殊なものを狙うよりはむしろ、量でゆく商法で巻きすしなどは普通の飲食店のよりはひとまわり大きい」という特徴があったようです。
復興と共に通常の店や建物ができはじめ、屋台を出す空き地も少なくなっていったことから屋台店の光景は次第に見られなくなっていきました。