大ヒット曲「島唄」は歌詞全てに裏の意味 恥ずかしさと怒りから生まれた一曲 音楽家・宮沢和史さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


大ヒット曲「島唄」は歌詞全てに裏の意味 恥ずかしさと怒りから生まれた一曲 音楽家・宮沢和史さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄> 力強く「島唄」を歌う宮沢和史さん=沖縄市のミュージックタウン音市場
この記事を書いた人 Avatar photo 安里 洋輔

「何も知らずに生きてきてしまった」。1992年に発表された「島唄」。人気ロックグループ「THE BOOM」による唄(うた)三線の調べは、沖縄戦を知らずに半生を過ごした宮沢和史(56)=山梨県甲府市出身=の「恥ずかしさ」と「怒り」から生まれた。

 ▼(その2はこちら)沖縄「音楽の宝島」への憧れと罪の意識…「島唄」完成後の葛藤と決意

 「デイゴの花が咲き 風を呼び 嵐が来た」「島唄」の歌い出しだ。77年前、デイゴが咲く季節に沖縄が直面した悲劇への鎮魂の思いを込めた。「沖縄戦のことを自分なりに歌った。歌詞の一行、一語の全てに裏の意味があった」

 デイゴの花を揺らした「風」「嵐」は、県民の4人に1人が命を落とした「鉄の暴風」でもあった。「ウージの森」での別れの情景は、琉球音階を「ヤマト」の音楽家になじみのある西洋音階に転調させ「千代にさよなら」「八千代の別れ」とつづった。軍国主義の名の下で、国家に殉ずることを強制された不条理への怒りを込めた。

 糸満市のひめゆり平和祈念資料館で、沖縄戦の惨禍を初めて知り、自身の無知に打ちのめされた。芽生えた「罪の意識」を払しょくするため三線を手にした。

 発表当初は、沖縄で受け入れられるのか不安もあった。しかし沖縄から火がつき国内外に広がった唄は多くの県民に愛され、沖縄の音楽文化の新たな地平を開いた。その後も沖縄との縁は続いた。沖縄の日本復帰50年、「島唄」誕生から30年の節目となる今年、沖縄との関わりを1冊の本にまとめた。「沖縄のことを聞かせてください」。タイトルには沖縄と向き合い続ける覚悟を込めた。

 (文中敬称略)
 (安里洋輔)


 1972年に沖縄が日本に復帰して半世紀。世替わりを沖縄と共に生きた著名人に迫る企画の25回目は、ミュージシャンの宮沢和史さん。ヒット曲「島唄」でつながった沖縄との30年の歩みを振り返る。